布団あります まくらことば活動日記

歌ものロック/ポップスバンド、まくらことばのブログです。

「初恋の嵐」のこと

おはようございます、サトー@まくらことばです。

 

みなさんは初恋の嵐というバンドをご存じでしょうか。

現存するバンドではあるのですが、目下活動中という感じでもなく、私は詳しい内部事情など一切知らないので個人的な思い込みにすぎないのですが、このバンドはいま、ある目的のために存在しているのだと思っています。

その目的とは追悼であり、夭折のソングライター、西山達郎さんを後世に語り継ぐこと、その使命を負っているのが現在の初恋の嵐なのではないかと。

 

初恋の嵐について通り一遍の紹介をしておくと、音楽的にはアメリカンロックやはっぴいえんど系の日本語ロックの影響下にあるスリーピースのロックバンドです。

メジャーデビュー準備中の2002年、ソングライターでボーカル・ギターの西山さんが25歳という若さで亡くなり、制作途中の音源を残ったメンバーが引き継ぎ完成させ、シングル1枚とアルバム1枚をリリースしました。

以降、活動休止状態が続いていたのですが、2012年にゲストミュージシャンを招いてライブを行ったそうです。

 

初恋の嵐の音楽は、もしあのままバンドが精力的に活動を続けていれば、日本の音楽シーンを書き換えた可能性もあったであろう完成度と影響力をもったものです。

私は西山さんのミュージシャンとしての才能は、曽我部恵一草野マサムネといった人たちに匹敵するものだと思っており、哀愁を帯びていながら乾いたメロディライン、メイルボイスの一番いいところを抽出したようなヴォーカル、そして想像力豊かで完全にオリジナルな言葉のセンス、どれをとっても頭抜けた存在だったと思います。

あ、あとギタリストとしてもすごかった、巧いニール・ヤングみたいな感じで。

そしてバンドのシンプル極まりないアンサンブルと鉄壁のグルーヴは、ソングライターの才能を投影するのにこれ以上ない舞台で、当時の豊潤な音楽シーンでも際立った音を出していたのではないでしょうか。

それだけに、中心的人物を失った初恋の嵐は、「時間の止まった」バンドとして消化しきれないまま落ち着きのない場所に浮遊しているようで、私はこのバンドに対し、今も生々しい衝動みたいなものを感じずにはいられません。

 

あれは1998年か99年くらいだったでしょうか、私は偶然、本当に偶然に、初恋の嵐のライブを観たことがあります。

昔バイトをしていたCD屋の仲間にはバンドマンが多く、よくライブに誘われては観に行っていて、私のバンドもイベントに出演させてもらったりという関係でした。

その界隈は、もともとわりとオーソドックスなギターロックから出発した人が多かったのですが、当時の音楽シーンとも同期して、次第にルーツ的なアメリカンロックやカントリーロックに向かう人が出てきました。

これはダイナソーJr.などのオルタナバンドを経て、そのルーツであるニール・ヤングに行き、さらに奥深くアメリカンロックに分け入っていく流れで、当時の日本のシーンでサニーデイサービスを中心に盛り上がっていた「フォーキー」な一面と、よりルーツ色を濃くした「アーシー」な一面の融合とでも言いましょうか、そんな雰囲気が満ちていたのです。

そのシーンの中心的人物が玉川裕高さんという方で、恐ろしいほどのギターの腕前の持ち主であり、穏やかな人当りで人間的にも皆の尊敬を集めるような方でした。

玉川さんを師と仰ぐ人はたくさんいて、当時メジャーデビューを果たしていたフリーボなども玉川さんリスペクトを前面に出していました。

私のバイト仲間のバンドメンバーも、玉川さんの出番になると直立不動で演奏を食い入るように見つめており、そんな場面からも「ああ、この人はすごい人なんだ」とよく感じたものです。

私は個人的に知己があるわけではないのですが、心の中では玉川さんを「日本のクラレンス・ホワイト」と呼んでおり、彼のミュージシャンとしての才能はもとより、彼の作り出す磁場のようなものにあこがれを感じていて、自分もその末席に加われればいいなと思いながら少し遠くから眺めていた、そんな感じです。

 

玉川さんは当時からいろんなバンドに参加しておられましたが、もともと基盤にあったのはヒップゲローというバンドではなかったかと思います。

ヒップゲローはオルタナ色の濃い轟音ギターを軸としたバンドでしたが、次第にルーツロックに傾倒していく中で、今度はカントリーロックを明確に打ち出した新たなバンドを結成されます。

それがコモンビルというバンドで、今これを書くために調べてみたら、1998年の結成となっています。

私が観たライブにはこのコモンビルが出演していたのですが、件のバイト仲間のバンドが三顧の礼で出演をお願いしていたのだと思います。*1

 

その時のライブ(確か下北沢シェルターだった)では、コモンビルはまだ結成間もなく、お披露目に近いような感じだったと思います。

コモンビルの中心はギターとヴォーカルの玉川さんですが、玉川さんのワンマンバンドでは決してなく、どちらかといえばツーフロント体制のバンドでした。

そのもう一人のフロントマンが、ベースとヴォーカル担当の西山さんで、彼は初恋の嵐と掛け持ちでコモンビルのメンバーも務めていたのです。

私はコモンビルについて音楽的な予備知識なくそのライブを観に行ったのですが、あのカリスマ的存在である玉川さんが新しいバンドを結成したらしい、しかも相当なメンバーを集めたらしいということは事前に聞いていました。

そんなすごい人が自分のビジョンを実現するパートナーに選んだのがあのベースの人か……私はどんな手練れが出てくるのだろうと思っていたところ、当時の西山さんはどう見ても若者で、ひょっとしたら自分より年下なのではないかという青年でした(実際に1コ下)。

コモンビルのパフォーマンスで今も記憶に残っているのは、とにかく強烈にドライブしまくる玉川さんのギターなのですが、西山さんについては、「あ、MCは玉川さんじゃなくてベースの人がやるんだ」「ベースの人は曲ごとにネックと弦を拭いていて楽器大事にしてるな」という印象が残っています。

そしてその夜、西山さんはコモンビルのMCで「初恋の嵐というバンドもやっているんです」というようなことを言って、続いて初恋の嵐の演奏が始まったように記憶しているのですが、この辺非常に記憶があいまいで、肝心の演奏についてはほとんど覚えていないのです……ただ印象的なバンド名以外は。

 

その後私は次第にそういった「シーン」から離れていき、音楽そのものからも遠ざかってしまい、初恋の嵐のその後も、西山さんの急逝も知らないままに10年以上の時間が流れました。

 

長年のブランクを経てまたバンドを始めようと思ったとき、私はなぜか、頭の片隅にあった「初恋の嵐」という名前のバンドのことが気になり、YouTubeで検索してみました。

そこで聴いたのが名曲「Untitled」で、乾いたメロディとサウンド、練られた展開、力強いグルーヴ、そして突き刺さる言葉すべてが、私の想像を超える音として迫ってきました。

私はそこで、途切れていた流れのようなものがまたつながって動き出す予感みたいなものを感じた、のかもしれません。

そしてバンドを再開するにあたり、私がイメージする理想像として、初恋の嵐はその筆頭に位置するような存在となったのです。

 

初恋の嵐は多くのファンにとって「時間の止まった」バンドだと思うのですが、その音楽に止まった時間を動かすきっかけを受け取ることになるとは、まったく不思議を感じずにはいられません。

もし西山さんが生きていたら現在37歳、どれほどの名曲が生み出されていたのだろうと思うと気が遠くなるのですが、残された作品の影響力は、時間を経るごとに増してくるような気がします。

私はいま初恋の嵐を聴くと、当時のシーンの熱のようなものが思い出され、何かを追い求める人間が保つ姿勢の美しさのようなものを感じます。

しかしそれがノスタルジーでなく、いまの自分に切迫した問題として立ち上がってくるのは、ひとえに西山さんの言葉と歌の力にほかなりません。

なぜあんなダイレクトで、想像力豊かで、突き刺さる言葉が歌えるんだろう――あの、切磋琢磨しながら皆で「ほんもののロック」を追い求めていたような緊張感が蘇ってくるのです。


初恋の嵐 Untitled - YouTube

*1:ちなみにこの「バイト仲間のバンド」ですが、この頃はカントリー風のギターを取り入れたアメリカンルーツロックを志向していたものの、絶え間ない音楽的変遷を続け、メンバーの増加も経て、最終的にはダブインストにたどり着きました。リーダーでギター担当の森下くんには一度長電話でバンドのことなどを相談させてもらったことがあり、若き日の私にいろいろなことを教えてくれた存在でもあります。ドラムの齋藤くんは掛け値なしに日本屈指の力量で、私が観た中では最も巧いドラマーです。