布団あります まくらことば活動日記

歌ものロック/ポップスバンド、まくらことばのブログです。

明るくて切ない旋律

高校生って、すごく残酷な季節だったと思いません?

当然人によると思うんですが、中学校ってなんだかんだ言って小学校の延長線上にあると思うんです、メンツとか。

そんで男は特に、誰しも思春期前半特有の病気にかかって自分を見失うものですから、まぁ長い人生の中ではイレギュラー時代と片付けていい。

中学時代に起きることなんて、はっきり言ってどうでもいいことばっかりだと思います。

対して高校時代は、まずそれまでと顔ぶれが大きく異なる。

そしてもう、学校サイドも「みんな仲良く」というドグマを有していないので、基本的には気の合う人間とだけ付き合っていけばいい。

その中で文化的側面が飛躍的に向上する蓋然性が高く、音楽やファッションを中心に中学時代とは比べものにならない発展を遂げる人も多いと思います。

そしてお兄さんやお姉さんがいる人の場合、もう社会人になっていたり大学に行ってる人もいたりして、そこから降りて来る影響が今までとはケタ違いに幅広いものになってくるかもしれない。

とにかく一気に世界が広がるのが高校時代だと思います。

 

その反面、高校生の社会的パワーなんて、実は中学生とたいして変わりません。

いろいろ知識が増えた分、欲しいものや行ってみたい場所のリストも格段に長くなったのですが、多くの場合、高校生の経済力はゼロに等しい。

大概の学校はバイト禁止だし、仮に出来ても高校生のバイトの稼ぎなんてたかが知れています。

そしてこれは特に地方では決定的なのですが、高校生には足がない。

格段に広がった世界を闊歩するためには、地方ではクルマ(もしくはバイク)が必須なのですが、高校生でこれを自在に操ることができるケースはほぼ皆無に近い。

そう、高校生は、その欲望のスケールに比して圧倒的に無力な存在なのです。

 

思えば今自分が仕事以外でやっていること――音楽を聴き、ギターを弾き、本を読み、服を買いに行き――といった行為の根本的な嗜好は高校時代に形成されており、今や表面上はまったく違うものになっていますが、元をたどればすべては高校時代に始まったものばかりです(音楽に至っては高校時代からずっと聴いてる作品が多くある)。

ということは、今とほぼ同等の欲求を抱えながら、自分の自由になるお金がほとんどないことを筆頭に、あらゆる手段を持たない状態が高校時代であると。

これは生殺し以外の何ものでもないように思われます。

まぁ、心から願っているのに何一つ実現できない、そのことが気持ちをより強くさせ、想像力を鍛えることにつながるとも思いますが、それはいかにも後付けの理屈であって、当事者にとっては地獄でしかないでしょう。

実際自分の高校時代を振り返っても楽しい思い出など何ひとつなく、世の中には聴くべき音楽が星の数ほどあるというのに何で自分はこんなに無力なんだろう、そんなことばかり考えていたように思います。

 

そういう、希望はあるけどほとんどそれを叶えることができずに打ちひしがれている感じを象徴するのが、私にとっては当時放映されていた、東山紀之が出ていたバーモントカレーのCMでした。

いや、別にこのCMに意味があるわけではなくて、このCMソングの一見明るいようで実は切ない旋律が、妙にその頃の私の気分とマッチしていたのです。

帰宅部のエースだった私は、同級生が部活に汗を流していた夕方、テレビの前でまんじりともせず再放送の「あぶない刑事」や「トムとジェリー」を観ていたのですが、そういったときにこのCMが流れていたのでしょうね。

後年になって高校時代を思い返すたびに、あのバーモントのCMが思い浮かばれ、夕方の暮れてくる感じと自分の無力さが、独特な旋律に乗ってよみがえってくるのです。

 

長い間探していたのですが、先日ようやく発見しましたので、ここに1992年のバーモントカレーCMを貼っておきます。

♪おーいしーカレーをつくるためー というところのメロディがもう、切なくて……。

ユニゾンにはご用心

音楽用語「ユニゾン」は同じ音程の音が重なった状態のことで、同一の旋律を複数の楽器や音声で演奏することを言います。

と、杓子定規な説明をすればかえってわかりにくくなるくらいおなじみの音楽用語だと思われ、日常会話でも同じことを複数の人が同時に発言したりしたら「何ユニゾンしてんの!」みたいな使い方を多くの人がしているのではないでしょうか。

 

バンドアレンジにおけるユニゾンというのは、劇薬というか奥の手的なもので、効果が非常にわかりやすいためかえって演奏者のセンスが問われる、簡単なようでいて相当試される手法です。

なんか身も蓋もないんだよね、ユニゾンって。

それをかっこよくまとめるためには、下世話ぎりぎりで反転する絶妙のセンス、ユニゾンで押し切っても聴くに耐えうる強靭な曲のストラクチャー、そんなものが求められます。

料理で言うとなんだろなー、カレー以外で使うカレー粉的な感じかしら。

それ自体優秀な調味料とわかってはいるんだけど、いかんせん強力すぎて料理がカレー一色に染め上げられてしまう。

上手くいけば美味、失敗すればデリカシーのない大味、しかもそれが紙一重のさじ加減にかかっている、そんな難しさがあります。

 

そう、ハマれば猛烈にかっこいいのがユニゾン

たとえばこの曲。

いやー、かっこよくないですか?

ボーカルとギターリフ、それからなんだ、重いストリングスみたいな音がずっとユニゾって最後まで押し切る力業ですよ。

このあっけらかんとしたわかりやすさがT.REX最大の魅力で、これやってかっこいいんだからマーク・ボランはやっぱり天才としか言いようがない。

T.REXってどの曲も超キャッチーだけど消費されちゃうような弱さとは無縁、めちゃくちゃ強いんだよなー。

ブルースから発展したハードロックって展開で聴かせるかっこよさが主流なんですが、このバンドはなんか曲全体が一個のリフというか不可分な音の塊として迫ってきます。

でもマーク・ボランって信者さん多いからなー、生半可なこと言ったら怒られそうな気がして、すごい好きだけど触れるのははばかられるんですよね……。

 

次は、忘れてしまうにはあまりにも惜しいスウェディッシュロックバンド、アトミック・スウィングの代表曲。

これも下世話なまでにわかりやすいですねー、サビのメロディラインとギターフレーズが一体化してるもん。

でもなんだろ、曲全体に緊張感というかドライブ感があるから、予定調和な感じがしない。

くそキャッチーなコーラスと非常に男っぽいヴォーカルは一見アメリカン・ハードロック風でもあるんだけど、妙に60年代風の音像がやっぱりヨーロッパ風味なんですよね。

この人、ライブでも歌いながらこのユニゾンギター弾いてたらしいから、相当な腕前の持ち主です。

ライブで盛り上がりそうですよね、みんなで歌えそう。

 

そしてとかく難解と評されるこの人にもユニゾン曲が。

歌とエレピがもろにユニゾンなんだけど、展開にしたがって絶妙にヨレてくるこのセンスね。

ずっと16分を刻んでるベースが効いてるんですかね、よくこんなアレンジ思いつくなぁ。

ザッパはねえ、マイルス・デイヴィスとかと一緒で、もうその人が一つのジャンルじゃないですか、だから聴くんだったら道場の門をたたくつもりで臨まないとダメなのかなぁと思って長年放置していたんですが、今日日はようつべがありまっしゃろ、つまみ食い的にちょこちょこ聴けるいい時代になりました。

そんで思ったより聴きやすい曲もあって、そろそろなんかアルバム買おうかとも思うんですが、そうなるとどっから手をつけていいかまたわかんなくなるんだよなー。

 

やっぱりユニゾンを大胆に取り入れることができる人って、どっか突き抜けてると思います。

ほんとこれ紙一重の大技なので、たいがいはこんなにかっこよく決まらないですよ。

まぁこの中ではアトミック・スウィングは結構ぎりぎりを舐めていった感じですが、それでもダサい一歩手前できれいに反転してますよね。

とはいえくれぐれもユニゾン、取り扱い注意ってことで。

人生にはイージーリスニングが必要な時がある

先日、最近にないレベルで疲れた日があって、その日はもう19時くらいから布団に入ってしまいたい気分でした。

とはいえあまりに早く寝てしまうと夜中に目が覚め、かえって疲れのスパイラルから抜け出せなくなってしまうので、じゃあ音楽でも聴いてなんとか22時くらいまで持ちこたえるか、というシチュエーションがありました。

そういうほんっとに疲れた時にどんな音楽を聴けばいいのか?

これね、どんな癒し系とかメロウ系でも、ロックとかポップスはダメでした。

もう歌があるっていう時点で受け付けないのよ、そういう状態の自分には強いの、思想が。

じゃあジャズとかクラシックはどうかというと、これもダメね。

そういう音楽って歌は無くても、芸術的高揚を聴く者にもたらすことをねらいとしているでしょう、だからこれも強い。

ということで、結局その日私が聴いていたのは、ポール・モーリアリチャード・クレイダーマンでした。

 

このイージーリスニング界の巨人と天才、名前はご存じなくても曲は必ず誰でも聴いたことがあるはずです。

最近はなくなったけど、テレビの時間つなぎ的な天気予報のBGMとか、デパートの7階のレストラン――壁紙が森林みたいになっててテーブルの上に100円入れる占いマシンだとかミントキャンディーの小さい販売機が置いてあるようなところでかかってるとか、地方の静止画像CMのバックに流れてるだとか。

メロディだけだったら地方なら時報として役所が流してたり、商店街のスピーカーからひっそり聞こえてきたりもする。

これだけ日本の日常に溶け込んでいる(「いた」かな)洋楽って他になくて、日本人が耳にした機会の多さで言えば、ビートルズなんて足元にも及ばないでしょう。

この手のCDって、新聞広告の通販で「素晴らしきムード音楽の世界」とか銘打ってセットもので売られてたり、高速のSAとかホームセンターのCDコーナーに1000円くらいで売ってたりして、流通も一般のアーティストとは大きく異なっています。

そして管見の限りでは、この手の音楽に批評は皆無で、サブカル的ネタとして扱われることはまれにあっても、真正面からとらえた言説は見たことがありません。

まぁこの音楽は高揚とか覚醒をもたらすことを一切ねらっていないから批評の必要もないからね。

イージーリスニングって誰が名付けたのか知らないけど、天才だと思いますね。

これほど的確に対象物を捉えたネーミングってそうそうないと思うな。

 

例えばこの曲なんて、何人たりとも聞いたことないなんて絶対に言わせねえぞ!

これは私も今知ったのですが、なんでもリチャード・クレイダーマンのデビュー曲だそうです。

これ、広島テレビとかRCCの天気予報とか静止画像CMでやたらと使われてたなぁ。

なんか朝、午前中ってイメージがすごくしますね、まだまだ手つかずの一日が残っていて、若い日差しが差し込む窓際で聴くといいですねー。

 

ポール・モーリア先生ならこの曲が好きかな。

ポール・モーリアはこの少し哀愁を帯びた旋律がいいんですよね、非常に日本人向きだと思います。

途中からハイパーになる展開もいいし、妙になまめかしい女性ヴォーカルのスキャットもたまらん。

裏にはラテンっぽいパーカッションが効いてて、ドラマチックな展開と併せて日本人の好きな要素が満載されてますね。

あとこの曲、知ってる人なら必ず好きな「金曜ロードショー」のオープニングもちょっと彷彿させるよね。

 

あと好きなのはこれ。

もう天気予報感が半端ないでしょ。

今ってテレビ番組の開始時間が食ってるじゃないですか、チャンネル争奪戦のために。

そんでその分番組内のCM時間が厚くなっているという。

でも昔は9時なら9時ジャストから始まってたから、その前段階に必ず時間つなぎがあって、それがこの手のイージーリスニング+天気予報だったよね。

ギターとハープシコードの音色が非常に心地よいです。

 

クレイダーマン、モーリアからちょっと離れまして、イージーリスニングと言えばこの番組は絶対に外せない。

ジェットストリーム」……深夜0時に流れ始める音楽の定期便、夜間飛行のパイロット・城達也の素晴らしき世界!

いやー、これちょっとヤバいな、なんか涙出てきそうだわ。

このストリングスが束になって旋律を奏でるのって私ダメなんですよ、もうそれだけで心の柔らかいところに触れられてる気がする。

この曲「ミスターロンリー」は歌入りのオールディーズですが、日本人にはこのバージョンのほうが耳馴染みあるでしょうね。

城達也さんのナレーションと時折挟まれる管制との通信や機内アナウンス……飛行機乗りたくなったなー。

 

ということで、イージーリスニングは音楽そのものというより、それが流れていたバックグラウンドと一体化して記憶収納されているという、まさにBGMなわけですね。

これ、すごいことだと思いません?

聴く者を高揚させる音楽ってものがある一方、高揚させない音楽ってのもある。

しかもそれは「どうでもいい」「何の印象にも残らない」のではなく、くっきりと刻印を残しているわけですからね。

ちょっと言い方悪いですが、毒にも薬にもならないのに印象的という二律背反を見事に成立させているのは、相当レベルの高い仕事だと思います。

ようつべのコメント欄とか見ても、みなさん「これはKBSの天気予報で使われていた」とか「学校で5時に流れてきた」とか、状況込みで思い出を持っていることがうかがえ、それはすぐれたイージーリスニングが、シチュエーションを埋め込む余地をきちんと残してある表現だということでしょう。

繰り返しになりますが、「イージーリスニング」って誰が考えたネーミングなんだろうね、ホント完璧だわ。

「メンバーズオンリー」の壁の前で

「なんか最近おれ、昔の話ばっかりだなー」とこのブログを見て思うのですが、これからする昔話は私の気分がレイドバックしているからではなく、わりにセンシティブな話題なので他にもストックあるけど直近のエピソードを引いてくるのに適切でない、という事情によります。

 

大学のころ、私は今で言う“ぼっち飯”の常連でした。

その日も売店でサンドウィッチを買い、さてどこで食べようかと学生ホール的な机と椅子がばーっと並べてあるところで空席を見つけ、腰をおろしていざ食べようとしたのです。

そしたらどっかから女がやってきて、「あのー、そこウチのサークルの場所なんですけど……」と私に言ってきました。

私は一瞬なんのことかわからなくて「え、えっ!?」という感じだったのですが、とりあえず「そこどいて」という趣旨は伝わったので、「ああ、すみません」と小声で言ってそそくさと立ち去りました。

それから私がどこに移動したのかは忘れましたが、少なくともこんな恐ろしい場所には居られないと思い、学生ホールを出て行ったことは覚えています。

それ以来私は、(超短いですが)学生生活を終えるまで、ホールとか学食みたいな公共スペースには一切近寄りませんでした。

念のために言っておくと、その場所には何か目印や場所取りの荷物などなく、第三者には純粋な空席としか思えませんでした。

この「事件」は今でも思い出すと自分の中で何かが起動する(あるいはシャットダウンする)生々しさに満ちていて、たぶん一生忘れることはないと思います。

 

あのねー、こういう「メンバーズオンリーの壁」にはねっかえされた時って、当然腹も立つんですが、なんか哀しくなるのよ。

仲間外れとかシカトに対しては、もう100%怒ればいいんです。

そんでそういうことする奴と戦うもよし、縁を切るもよし。

だって仲間外れとかシカトって、それ自体が世の中にあってはならないものだからね、絶対的な悪。

でもね、メンバーズオンリーってのは非常に厄介で、それ自体は別に世の中にあってもいいものなんです。

場合によってはそういうルールを設定することによって、物事がうまく回るとか、クオリティが向上したりすることがあるかもしれないので。

だから私もその時、すごく腹が立ったと同時に、ローカルとはいえルールを知らなかった自分が悪かったのかなとか、そもそもおれ田舎者だから……とか、どこかで刃が自分に向ってくるのを感じたんです。

それはトータルでとらえるとすごく処理しにくい感情で、不正義に対して敢然と立ち上がるような単純なリアクションにはつながらない。

かといって自分の内部で消化することもできない。

もう哀しいとしか言いようがないのよ。

これ、そういう経験がある人なら絶対分かってもらえると思うんだ。

 

やっぱりね、そうすることに時として合理性があるとしても、不特定多数の人がアクセスする空間とか、いっけん門戸を開いている場所、つまりパブリックであることを織り込んで成り立っているところで、メンバーズオンリーを発動させるのはよくないですよ。

メンバーズオンリーやりたきゃ、徹底して他人の目が触れないところでやらないと。

あるいは会員制バーとか一見さんお断りの料亭みたいに、「そういうルールですよ」ってメンバー以外の人にわかるようにしておかないと。

そんで場の主催者がメンバーズオンリーというルールを設定するのは自由だと思うのですが、そのルールをインストールするかどうかもまた受け手の自由であることを確実に担保しておく必要があると思うんです。

もっと踏み込んでいえば、メンバーズオンリーというルール設定に対するクレームを言われたとき、主催者はメンバーズオンリーの壁にはねかえされた人が受けたのと同じくらいショックを受けるような感受性を常に用意しておけ、ということなんです、まぁ原理的にあり得ないことだとは思うが。

 

これってホントに難しい話で、単純に善悪で切って捨てることができないうえに、常に取り扱い注意の領域に存在してると思います。

あのね、たとえばADと私はほとんど自分たちの音楽の話なんてしませんが、それでも比較的よく出る話題、というか何度も確認しあっていることがあって、それは「まくらことばというバンドは誰に向けてやるのか」ということで、いつも「顔の見える範囲に向けてやる」ということを言ってるんです。

これは、「自分たちのやっていることがズレてないかを絶えず点検するために、最も厳しい基準を採用する」という意味であって、その効果として「より多くの人に伝わる」ことを目指したもので、メンバーズオンリーとは真逆の指向性だと自分たちは思っている。

でもね、それはメンバーズオンリーと非常に危うい関係性にあって、もう隣同士どころかちょっとクロスしている部分すら正直あると思うんです。

ということは、ほんの些細な何かのきっかけで、最も厳しい基準のつもりが最も甘い基準に変換されてしまう可能性を常にはらんでいる。

私は化学詳しくないから具体名は挙げられないけど、きっとそういう化学物質みたいなのあるんじゃない、人類にとってすげえ有用だけど、ちょっとした化学反応で途端に毒になっちゃう、みたいな。

だからそこはホント薄氷を踏む思いで慎重に慎重に運用してかなきゃいけないし、もし自分のやってることがメンバーズオンリーのルールに従うものになっていたとしたら、私はその瞬間にバンドもこのブログも、とにかく人様に何か伝えるような活動は一切やめます。

だってやっぱりそれはやりたくないことだし、メンバーズオンリーの壁にはねかえされたあの感情を知っているので。

 

以上、一昨日のozknの行動*1と、それが巻き起こした波紋から私が感じたことでした。

*1:直接行ったわけじゃなく、あくまでネット上で確認したものにすぎないのですが。

ある歌手への期待

朝倉さやの存在を知ったのは、安住さんのラジオ番組「日曜天国」でした。

たしか、初めてゲストで出演した週の放送は聞き逃していたのですが、その翌週の放送で、「たいへんな反響をいただいた」として、もう一度デビュー曲「東京」がリクエストされたのです。

なので何の予備知識もなく聴いた「東京」でしたが、私は涙があふれてきそうになりました。

のびやかで真っ直ぐな歌声は技巧として優れているだけでなく、心に直接触れてくるような力を持っていました。

そして一切の虚飾とは無縁の言葉が綴られていて、今の世の中にこんなに純粋な表現があること自体に驚きを覚えたものです。

その後、ポッドキャストなんかで出演回の番組をチェックし、気が付けば私は、すっかり朝倉さやファンになっていたのです。

 

私は知らなかったのですが、彼女は「なまりうた」ということで、テレビ番組では結構話題になっていたとのこと。

民謡コンテストで日本一になった実績からわかるように、民謡歌手として確かな実力をもった彼女は、ヒット曲を山形弁に変換して歌うという「芸」でテレビなどに出ていたそうです。

もしその時朝倉さやを知っていたら、「ふーん、こんな人いるんだ」くらいの印象で終わっていたかもしれませんが、彼女が本当にやりたいことは自分で作ったオリジナル曲で世の中に出ていくことであり、その思いがすべて込められたデビュー曲「東京」を最初に聴いたことは、今となっては幸運だったと思います。

彼女が「シンガーソングライター」として最初の一歩を踏み出したタイミングで知ることができたのですから。

 

「東京」は私がそれまで知っていたどんな曲とも似ていない、まったくのオリジナルな表現だと感じられました。

もちろん、ポップス、というか歌謡曲として普遍的なメロディとアレンジを追求した王道の曲なのですが、なんていうか「加工」がないのです。

それはエフェクトとかそういう意味じゃなく、表現として衒いがないということで、朝倉さやという歌手の「歌いたい、伝えたい」という一点の曇りもない衝動と、なんとか彼女を世に送り出したいという周りの人の情熱が、そのままパッケージされたような歌であるということです。

「東京」の歌詞は、ほぼ修辞の施しがないきわめてストレートな言葉選び・言葉遣いで成り立っていますが、かといって表現として奥行きがないかといえば全く逆で、それを目指すことなく詩情を獲得している稀有なものだと思います。

そして何より歌唱が素晴らしい。

どこまでも真っ直ぐに伸びていくような歌声は、聴く者の心を無条件に揺さぶる絶対的な何かが宿っています。

彼女の民謡という要素はこの曲においてバックグラウンドにすぎず、こういう表現をするために民謡歌手からシンガーソングライターに転じていったのか、と深く納得させられました。

 

私は基本的には、センスや批評性をベースに自らの表現を作り上げていくスタイルの人が好きなのですが、朝倉さやのように、芸事を研鑽しその積み重ねの上に自己表現を達成するスタイルの表現者にも、深い敬意を表するものです。

というか今の移り変わりの速すぎる音楽業界において、芸事の蓄積から表現を開花させる人は絶対的少数の貴重な存在で、それは本人に才能があることはもちろん、彼女のことを支えたいと心から願う人たちが周りにいることの証だと思います。

そう周囲に思わせてしまうのもまた彼女の才能なのですが、彼女が出演した番組の動画や音声に触れれば、その真っ直ぐな人柄がすぐに伝わってくると思います。

(余談ですが、彼女のプロモーション周辺は非常に手作り感満載で洗練とは無縁なのですが、そこにも好感がもてます)

 

私は「東京」の、「私一人でがんばるよ」というフレーズが好きです。

そこには他者を威圧する気負いもなければ、同情を誘う悲壮さもありません。

ただ真っ直ぐに前を見つめ、自分の足で歩いて行こうとする凛とした意志が感じられ、ホントに単純ですが、「よし、おれもがんばろう」という気にさせてくれます。

あそこに出るためにはなんかいろいろ大人の事情が左右するみたいですが、本当はこういう人こそ紅白歌合戦に出るべきなのです。

自作・他作を問わずこれからも作品に恵まれれば、朝倉さやは国民的歌手になれる逸材なのですから。

無限の可能性を感じさせる朝倉さやを、これからも応援していきたいと思います。