Walk Out to Winter
今年も東京に雪が降った。
朝起きてカーテンを開け、狭い庭の向こうの木々が雪によってしなだれているのを確認すると、通勤の厄介さを憂うと同時に、少し心が弾む自分もいた。
見慣れない人間にとって雪はいつだって特別なものだ。
ましてその季節初めて見る雪ならば、感じるものがあって当然だろう。
そしてその冬初めての雪は、決まって僕に、ある年の雪景色を思い出させるのだった。
1996年1月、正月が過ぎセンター試験を直前に控えた不思議と生暖かい夜、僕たちは田舎道をあてもなく自転車で走っていた。
僕たちはみな浪人生で、目前に迫った受験におののきながら、かといってそれを真正面からとらえることもできず、夜中に家を抜け出しては意味のない遊びを繰り返していた。
遊びといっても金があるわけじゃないし、そもそも盛り場など縁のないメンツだったので、誰かの家に行ってくだらない鍋を作ってみたり、自転車で町を徘徊したりして、疲れたらなんとなく解散するような他愛のないことばかりだった。
進学したり就職した大半の同級生たちがクルマを駆って女の子と遊んでいる時、僕たちは小学生時代とさして変わらない時間の過ごし方をしていたわけだ、しかも目の前の大きな試練から逃避して。
それでも僕たちは、不思議と痛快だった。
それは、同級生の大半が数十年後の将来までほぼ見渡せてしまう場所におさまってしまったのに対し、僕たちは未だ何一つ決め打ちをしていないという妙な優越感を抱いていたからだと思う。
もちろん、未来は何ら保証されておらず、現にいま未来を大きく左右する事柄から逃げようとしているのだから優越感など滑稽にすぎるが、(それがどんなに小さくても)可能性しかない浪人という身分の不思議な浮遊感は、高校時代まで一度も経験したことのない軽やかさで満たされていた。
僕たちは現実に対して何の効力ももたず、社会において何の立場も占めない代わりに、あらゆる義務と責任から免除され(勉強する/しないはとどのつまり個人の問題だ)、それでいて他人から咎められることのない特権を手にしていたのだ。
そして僕たちは、強い友情によって結ばれていた。
とりわけKくんと僕は、互いを無二の親友と認め合う関係で、(少なくとも僕は)生まれて初めて得た、彼と自分の存在を秤にかければ自分が跳ね上がってしまうくらいの存在だった。
彼と過ごす時間は、それまでのどんな対人関係よりも楽しかったし、彼の思っていること・感じていることはすべて、僕にとって重要なことだった。
僕は彼と一緒にいる時間が楽しくて仕方がない半面、少しずつそれが過ぎていくことに恐怖を感じた。
未来のことなどほとんど考えていなかったけれど、今自分が過ごしている時間が、二度と戻らないものだということは何となくわかっていた。
だってこんな美しい時間がいつまでも続くほど、人生は甘くないはずだから。
僕はそれまで、何人かの女の子に対して淡い憧れは抱いていたものの、なんだかんだいって自分を最も愛して生きてきたのだろう。
でもKくんと仲良くなってからは、彼を最も愛するようになった。
もともとKくんは幼馴染で好きな友達の一人だったけど、グループの違いなどからいつもどこか距離があって、遠巻きに見ていただけだった。
夏のある日、予備校の自習室で近くに居合わせた彼に思い切って話しかけた瞬間から、僕たちはかけがえのない親友同士になったのだ。
生暖かい夜の後、さすがに真面目にやらないとまずいと思った僕たちは、それから試験が終わるまで会うことなく過ごした。
そして、すべての試験日程を終えた2月のある日、全国各地の試験会場から戻ってきた僕たちはすぐにKくんの家に集まった。
僕は東京の大学を3つ受け、その時点で1勝1敗の結果が出ていた。
しかし「1勝」の学校は入試の時雰囲気が好きになれなかったので、あと1つが駄目でも行く気はなかった。
すなわちまだ何も決まっていない、きわめて不安定な状況にあった。
その事実はそれなりにショックではあったが、それよりも僕は、またこうしてKくんたちと集まって無為の時間が過ごせる日常を取り戻したことがうれしかった。
僕は生まれて初めて行った下北沢の古着屋で買ったコートを着て行って、みんなに自慢した。
他の者もほぼ入試の結果が出ていたが、みな不合格の報せばかりだった。
また、結果発表が残っていても、それまでの成績や手ごたえからほぼ絶望的な状況だという。
Kくんも地元の大学には受かっていたが、もう完全に東京に照準をしぼっていたので、事実上進路は未定だった。
つまり僕の最後の1校を残して、どうやら誰もが失敗という結果になりそうなのだ。
でも僕たちはそんなことは意に介さず、それまでと同じように大喜利をやったり、自転車で他の友達の家に行って音楽を聴いたりして、夜通しくだらない遊びに興じた。
徹夜でハイテンションになったからだろうか、陽も高くなった頃に誰かが「Y谷の奥に行ってみようや」と言った。
Y谷は谷筋に集落の形成された地区で、だらだら坂に沿って家が続き、奥に行けば行くほど家が少なくなって山深くなるという場所だった。
僕らの地元には同様の「谷」がいくつかあったが、男の子にとって、谷の奥の奥まで行ったことがあり、そこがどうなっているかを自分の目で確かめてくることは、勇気の証であり、いつか挑戦すべき冒険だった。
まさか二十歳を前にしてこの通過儀礼にエントリーするとは思わなかったが、皆いつか行ってみたいと思っていたのだろう、「行こう、行こう」と満場一致で採決された。
Y谷は舗装道が続くところまで小学校のマラソンコースになっているので、終点に大きな池があることは、この町の人間なら誰でも知っている。
しかし、そのさらに奥、鎖が張られたけもの道の先に何があるのかは、蛮勇を振り絞った者でしか知りえないヴェールに包まれた世界だ。
小学校のころから「Y谷の奥行ってきた」と名乗りを上げる者はいたが、それは大いに盛られた自己申告にすぎず、5人いれば5通りの話があるような神話の類だった。
Y谷の終点、大きな池のほとりに自転車を停めた。
ここから先はほとんど人が立ち入ることのない世界だ。
その日は快晴だったが、辺りには数日前に降った雪がほとんど手つかずの状態で残っていた。
雪を踏みしめながらけもの道を進むと、あちこちに散弾銃の薬莢が捨ててあった。
ここは時季によっては狩猟が許される場所なのだろう、入口に鎖が張ってある理由が呑み込めた。
とはいえ僕たちはもう子供ではない。
勇気を振り絞りさらに雪をかきわけて進むと、この町にこんなものがあったのか、と思わせる大きさの砂防ダムが現れた。
砂防ダムの低くなったところを乗り越えてまた雪の中を進んでいくと、今度はさらに大きな砂防ダムが現れた。
その先はもう進むことはできず、急斜面と草木の生い茂った原野が広がっているだけだった。
それは達成感があるようで、どこかあっけない結末のように思えた。
そういえば昔、誰かが「あそこにはダムがある」と言っていたっけ。
誰だか忘れたけど、そいつは真の勇者だったわけだな。
僕たちはダムの上に這い上がり、自分たちの進んできた方向の景色を眺めた。
眼下には僕たちが19年間を過ごした小さな町が広がっていたが、そこを抜け出すための手形は、その時点で誰の手にもなかった。
徹夜明けからのY谷探検だったので、僕はふらふらになって帰ると、そのまま泥のように眠った。
深い深い眠りから覚めると、もう翌日の朝になっていた。
気がつくとその日は、残り1つの合格発表の日だった。
僕は自分の部屋にあった子機から大学のテレホンサービスに電話をかけ、自分の受験番号をプッシュした。
すると、コンピュータの声が「おめでとうございます」と無機質に告げた。
僕のひとりぼっちの東京行きが決まった瞬間だった。
一応、1年間目指してきたことの結果が出たのだから、うれしいという思いは当然あった。
でも同時に、さっきまでそこにいた、Kくんたちと過ごした美しい時間が終わりを告げたことに、呆然とする自分もいた。
これからおれは、自分だけの人生をひとりで始めなければならないーー漠然とした不安と巻き戻すことのできない時間の流れが僕を圧倒した。
その頃はまだ分かっていなかったけれど、それは僕の少年時代が幕を閉じた瞬間でもあった。
アズテック・カメラの名曲「Walk Out to Winter」(冬へと歩き出そう)には、こんな一節がある。
Walk out to winter, swear I'll be there
Chance is buried just below the blinding snow冬へと歩き出そう 僕はそこにいるって誓うよ
チャンスはまばゆい雪の下に埋もれているのだから
この曲で言う「冬」とはメタファーであり、今までのこと(ここではパンク)が終わってしまった時代に、あえて厳しい環境に歩き出て新しい何かを見つけようというメッセージだと思われる。
皮肉にも僕は、少年でいることのできた最後の日に雪にまみれ、もうすぐ春になろうとする季節の中、まるで寒い冬に向けてそうするように、美しい時に別れを告げて歩き出すことになった。
僕はKくんを最も愛した季節を終え、新しく愛する誰かを探しに行かなければならない。
それは今まで経験したことのない、困難を伴った、思い通りにいかないことばかりの愛になるだろう。
なぜなら今度僕が愛する対象は、いよいよ異性になるのだから。
実際僕は、その年の春が終わろうとするころ見事に同じ大学の女の子を好きになり、雪が降るかなり手前の秋に、玉砕としか形容しようのない手痛い失恋を経験した。
でもそんなことは、あの2月の日に雪にまみれて冒険していた少年の自分には、知る由もないことだった。
毎年冬になると雪が降る。
でも、あの最後の少年の日に見た雪が降ることは二度とない。
もう戻らない季節の最後に見て触れたあの雪こそ、実はロディ・フレイムが歌った、チャンスをその下に隠したまばゆいばかりに輝く雪だったのかもしれない、今はそんな風に思う。
ランニング再開!
引っ越してから2か月弱。
今度の家は駅から少し距離があるため、毎日の行き帰りでけっこう歩くようになりました。
また、自転車に乗るようになって週末はチャリでウロウロなんてことが増えてきたので、運動不足を感じることがあまりない。
ということで長年続けてきたランニングをここ2か月はサボっていたわけです。
しかし、やっぱり体は正直で。
体重が増えてきたとか階段で息が上がるようになったとか、そういったベタな運動不足症状はないのですが、ここ最近なんか全体的に代謝が悪くなってきたような気がする。
特にお酒を飲んだ翌日のリカバリーに時間がかかるようになって、午前中使いものにならない状態だったりするし、なにより体がどんより重い。
私、人間の体って所詮一本のパイプみたいなもんだと思っていて、毎日いろんなものを食べたり飲んだり、あるいはメンタルでもいろんな感情を取り込んだりしているんですが、要は入れたものをきちんとしかるべき器官に回したら、余分なものはちゃんと出さないといけない。
パイプが詰まったらとたんに全身のいろんなところが機能しなくなるというのはまさに道理で、調子が悪くなったら詰まりを取り除いてあげないといけない。
ランニングをして全身に負荷をかけ、きちんと汗をかいたあとの気持ちよさというのは、まさに洗面台の排水溝にパイプユニッシュをぶっ込んだ後のような気持ちよさがあって、一番効率的でお金もかからないデトックスだと思うんですね。
そんなわけで今日、コース設計も兼ねて曇天模様の中行ってきましたランニング。
だいたい自分にとって標準的なペースをキープすれば、私は1時間で11~12キロくらい走れます。
これ以上走ると肩が凝ってきたり膝に痛みを感じるようになるので逆効果。
ということで家を出て1時間ちょっと、気の向くままに走ってみようと思いました。
地図を見るとこのあたりは大きな公園がけっこうあるので、それを数珠つなぎにして走ってみるのはどうかと思い、まずは三宿の世田谷公園に向けて出発。
多摩川を走っていた頃に比べ、このあたりは車通りのない道を選ぶのはほぼ不可能ですが、なるべく幹線道路を避けて住宅街の路地に入ります。
それでもやっぱり、どの道も人通りが多い。
狛江時代、人に会うことはそれほど多くなかったので、なんというか新鮮です。
しばらく走って体が温まってきたころに世田谷公園に到着。
ここも周回コースがあるのですが、1キロとやや物足りないのでそのまま園内を抜け、五本木方面に進路をとります。
五本木~東が丘、つまり目黒区を走りながら目指すはランニングの聖地・駒沢公園。
ここの周回コースは2.14キロと絶妙な距離で、サイクリングコースともきちんと区別されていて非常に走りやすいとのこと。
私も多摩川で5年以上鍛えていましたので腕に(この場合脚ですが)覚えあり、ちょっとやそっとでは他のランナーに抜かれない自信があります。
「多摩川仕込みの激走、見せたる!」と気合いを入れて周回コースに合流したのですが、そこは今までまったく経験したことのない、まさにランニング天国でした。
まずはランナーの数が圧倒的に多い!
もう多摩川の狛江~二子玉川間なんてほとんど同じ方向に走るランナーがいなくて、非常に孤独を感じながら走っていたものですが、ここはマラソン大会かと思うくらいの人の多さです。
そしてランナーも様々で、フィットネスで走る世田谷マダム、中年肥り解消のサラリーマンから、大学の陸上部みたいな超ハイレベルランナーまで、各々が自分のペースでコースを快走しています。
そしてみなさん、格好が決まっていること!
ここにはスウェット上下にごついスニーカーみたいな人は一人もいなくて、みんな色とりどりの専用ウエアと最新の軽量ランニングシューズを履いています。
揃いのウエアとシューズで走っているランニングサークルみたいな集団も結構いて、リア充感が半端なかったです。
走っているとわかるんですが、やっぱり一人って孤独だし、張り合いがないんですよね。
多摩川時代は数少ないランナーを遠方に見つけたら「よし、絶対抜いてやる」と気合いを入れていましたが、そんなことはめったになくて。
でもここでは次から次にターゲットが見つかるし、絶対に歯が立たないような上級ランナーもいる。
もうホント、走っててこんなに高揚したのって初めてですよ、やっぱり聖地は違いますね。
今日は駒沢公園に入った時点で30分以上は走ってきていたのでおとなしく1周にとどめましたが、次回からは最短で駒沢公園に行って2、3周することにしようかな。
さすがにここで最速を名乗るのは無理ですが、ハイレベルなランナーと一緒に走ることで、ちょっとでも得るものがあればと思います。
駒沢公園から家までは体感で2キロくらい、トータル1時間ちょっとのランニングになりました。
地図で距離を計測してみるとジャスト12キロ。
うん、やっぱりこれぐらいが私にとっては苦痛と爽快感のベストバランスみたいです。
そして何より、今私がひたっているこのすっきりした感じは、ランニング後でないと味わえないものだと実感。
いよいよ寒さが厳しくなってきたこの冬ですが、週末のランニングを楽しみに過ごしていけそうです。
房総音楽
私、房総が大好きで。
なんていうんだろうな、日本の大部分を占めるのぺーっとした地方、みたいなところもあるんだけど、大部分は海と山が織りなす非常に野趣あふれる感じがする。
でも雄大な自然という感じではなくて、スケール感が実に程よい。
圧倒的なパノラマに一人ぽつーん、みたいなシチュエーションより、人里もあって自然もあって、みたいな。
それでやっぱり、空が広くて夜は星が綺麗。
田舎の方は高い建物がなくて景色の抜けがいいし、星がホント嘘みたいにいっぱい見えるんです。
私の育った瀬戸内地方も海と山の景色ですが、なんていうか箱庭的な美しさなので、房総のワイルドな感じは自分の原風景にはない。
だからすごく新鮮で、よく房総に釣りに行ったりドライブに行ったりしてました。
いまクルマに乗らなくなって簡単に行けなくなったがゆえに、より思いが募ってきています。
房総に似合う音楽っていうのが確実にあって、それは実際聴きながら房総半島を走っていた曲なんですが、風景と音楽が相まって「うわー、これって!」みたいな感覚になったことが何回もある。
例えばこんな曲。
あー、やっぱり半端ないわ、風景との親和性が。
初期セイント・ヴィンセントの音楽を聴くと、アメリカのロードムービーを観たあとみたいな感覚になるんです。
この曲はなんか、アメリカ中部のなーんもないところでトレーラーハウスとかに住んでて、朝起きて外に置いてあるキャンプ道具で薄いコーヒーをいれ、ステンレスのマグカップで飲んでいるような感じ。
この、イベント性の薄い「日常的なキャンプ感」って、まさに房総アウトドアなんだよなー。
それからハイラマズのこの曲とか。
これは特に、2:59あたりから始まるスライドのギターソロの房総感がすごいですねー。
なんだろう、この曲の体温が低いまま揺れてる感じが、例えば東金から横芝光町方面に向けて田んぼの中の道をひたすら走る感覚と異常にマッチしてる。
うん、これは午後のややレイジーな空気の中に合ってるなぁ、さっきのヴィンセントが午前中のぴーんとした空気に馴染むとしたら。
そんで日が沈んで満天の星が見えてきたら、海辺にクルマを停めてこの曲を聴きたい。
これはもう歌詞もまさにって感じ。
ちょっとゾーンに入っちゃって、意味もなく涙があふれて来るかもしれない。
実際これ、昔バイト先の店長にみんなで太海の海水浴場に連れて行ってもらった時、道中車内で「犬」をかけてもらって、その時ちょうど夜だったんですが、すごく印象に残ってるんですよね。
東京近郊の海といえば房総の他に湘南がありますが、湘南も大好きだけどこの感じはないんだよなー。
同じくゆるーい横ノリなんだけど、ラヴァーズロックみたいなレゲエとか、AORのリラックスしたやつとか、そんな感じが似合う。
そんで湘南は仲間とワイワイ賑やかに行くのが楽しそうだけど、房総はそれこそ「地上の夜」みたいにクルマに毛布でも積み込んで1人で行くのがいい。
房総半島、春になったら行ってみたいなぁ。
拝啓 デヴィッド・ボウイ様
突然のあなたの訃報に接し、いま世界中で何億人の人が驚き、悲しんでいることでしょう。
私も多くの人と同じように、あなたの作品に夢中になり、あなたの存在を愛し、そしていま、あなたの不在を悄然と受け止めています。
とはいえ私は、あなたの文字通り目まぐるしいキャリアのすべてにおいて、熱心なリスナーではありませんでした。
私があなたの作品で夢中になったのは、いわゆるジギー時代の傑作群と、80年代のコラボ作品たちであり、あなたのことを語る資格など自分にはないと戒めもしたのですが、やはり旅立たれたあなたにどうしてもお礼が言いたく、こうして筆をとった次第です。
私が「ジギー・スターダスト」に出会ったのは、16歳の終りの秋の日でした。
今でも覚えているのは、それが生まれて初めてタワーレコードに行った日だからで、宝の山を前に興奮しきりの私は、わずかな小遣いから迷いに迷ったすえ最終的にあなたのレコードを選び、抱きしめるようにして持ち帰ったのです。
あなたの作品を聴いてみようと思ったのは、当時私が夢中になっていたバンド、スウェードのメンバーがあなたからの影響を公言していたからで、耽美で麻薬的なスウェードの音楽の虜だった私は、同じようにグラマラスな音像をあなたの音楽にも期待していました。
プレーヤーに載せた「ジギー」からは、確かに華やかではあるけれど、思っていたよりもずっとシンプルなロックが流れてきました。
スウェードよりもむしろ、馴れ親しんできたビートルズに近いと思ったものです。
一聴して地味に感じた音像はしかし、私を魅了するまで、おそらく3日とかからなかったでしょう。
練りに練られた曲たちは真の意味でのダイナミズムに溢れていて、聴けば聴くだけ、このレコードが私の心を占拠していったのです。
最初は受け入れがたいと感じたあなたの派手なヴィジュアルも、この素晴らしい曲たちをパッケージするもののひとつであって、目的ではなく手段であることが次第に理解できました。
実のところ、世界があと5年だとか、火星からやってきたスターだとか、そういった設定は私にとってはどうでもよくて、とにかくただただ素晴らしい曲たちに圧倒されたのです。
優れたロックミュージックに全身を包囲されたときの、あのゾーンに入ってしまう感じ。
それが田舎の高校生にとってどれだけ刺激的で、退屈な日常の対極にあるものか。
その頃私が直面していた現実は、何もかもが灰色で蹴飛ばしてしまいたいものばかりでしたが(実際にはそうではなく、そうとしか思えなかっただけですが)、あなたの音楽を聴いている間だけは、世界は美しく輝き、興奮に満ち溢れていました。
当時の私にはアイドルが何人かいて(みんなあなたの後輩です)、彼らはひねくれた私の感情を誰よりも的確に表現してくれた「代弁者」でしたが、あなたは私にとって、理屈抜きでひたすら夢中にさせてくれる異次元の存在であり、文字通り「スター」だったのです。
十代から二十代にかけて、「ジギー・スターダスト」は間違いなく一番聴いたレコードでしたが、私は二度に分けて、この作品に深く接することになりました。
二度目の出会いとは、自分でもギターを弾くようになり、下手ながらプレイヤーの立場から「ジギー」を掘り下げるようになったことです。
18歳の頃、昼飯代を切り詰めて貯めたお金で買った「ジギー」のスコアは、私にソングライティングのすべてを教えてくれました。
王の墓をあばくように、私はあなたの魔法のような作曲術を検分していきましたが、そのロジカルで美しいコード進行は、それまで私が知っていた歌謡曲やフォークソングのそれとは大きく異なっていました。
あなたの曲には必ずぐっとくるポイントがありますが、そのような時はいつも、通常のセオリーからはずれてみたり、逆に王道をこれでもかと展開してみたり、微妙な味付けの変化が施してあったり、とにかく何がしかの「仕掛け」があったのです。
このことは私に、「感動には必ず理由がある」というソングライティングの鉄則を教えてくれました。
あなたは天才的なソングライターであり、その表現は神秘に包まれていましたが、発信者たるあなた自身は決して偶然に身を委ねることなく、緻密に、真摯に、文字通り作品を織り上げていたのですね。
パフォーマンスにおいて奇跡は起きることがあっても、作曲においては奇跡など起こりようがなく、ひたすら地道な試行錯誤と積み重ねの先に多くの人の胸に響く曲が立ち上がってくるということを、私はあなたから学んだのです。
あなたはソングライターとしては間違いなく屈指の存在ですが、楽器演奏者として、またシンガーとしては、大変失礼ながら、傑出した存在ではありませんでした。
しかし、あなたの表現は常に刺激に満ちていて、創造性を感じさせました。
あなたはまさにコンセプトの天才だったのだと思います。
そして、虚実の入り交じった自身の打ち出し方は、たった一つの絶対的な法則、「Changes」に貫かれていました。
あなたは常に美しく、気高い佇まいの人でしたが、それは変化という不断の緊張感を自らに課し、常に「何かであろうとする」途上にあったからではないかと思います。
あなたの死後、親交のあった方々が「普段は普通の人だった」とあなたを偲んでいたのを目にし、私はあなたの魅力の根源を見た気がしました。
あなたの本当の美しさは、天賦のものにではなく、美しいものに憧れ、それを目指す姿勢の中にあったのだと。
あなたが愛したこの国には、あなたの母国にも負けないくらい、あなたの影響を受けた表現者が多く存在します。
その中で、最も自覚的にあなたに迫ってきた音楽家が、奇しくもあなたの死の直前に、かつてのバンドを再始動させることを発表しました。
彼もあなたと同じように、美しくあろうとする姿勢が美しい人です。
いち音楽ファンとしては、星を継ぐ者・吉井和哉の今後の活動に期待せずにはいられません。
あなたが遺した不滅の作品を聴き継いでいくとともに、あなたが影響を与えた多くの表現者の作品に触れることで、偉大なる表現者で稀代のロックスター、デヴィッド・ボウイに出会えた喜びを、これからも噛みしめていきたいと思います。
本当に、ありがとうございました。
昭和の絵師を偲ぶ
はじめて上村一夫作品に触れたのは、やっぱり『同棲時代』だったと思います。
若い二人が貧しさに耐え、支え合いながら愛を育む……という作品ではまったくなく、駆け出しのイラストレーター次郎と小さな広告会社に勤める今日子の、何ものにも縛られないがゆえに確かなことが何もない日々の生活を、きわめて抒情的な絵と言葉でつづった作品でした。
この作品を読んで私は、とにかく絵に惹かれました。
ジャンプ全盛時代に育った私たちの世代には、まだ大人向け漫画には「劇画」なるものが存在し、「このマンガは劇画タッチだね」みたいな言い方もありました。
上村一夫の絵も確かに劇画タッチなのですが、その作品はそれまでに知っていたどの絵とも違う洗練を感じさせました。
とりわけ女性キャラクターの妖艶さは際立っていて、その表情と体のラインは美術作品として成立するくらいの美しさを感じさせます。
とにかく絵が気に入って、それから上村作品を読み進めてきましたが、次第に作品全体に魅了されるようになり今日に至るという感じです。
とはいえ、「好きな漫画家は?」と訊かれれば、手塚治虫、つげ義春、秋本治といった名前がまず挙がります。
上村一夫はといえば、やはり私にとっては漫画家である以前に画家なのだろうと思います。
今日1月11日は上村一夫の命日で、ちょうど30年前の1986年、45歳の若さで亡くなりました。
現在、文京区の弥生美術館では「上村一夫×美女解体新書展」を開催しておりまして、命日にあたる今日、娘さんの上村汀さんのトークイベントなどもあるということで、行ってきた次第です。
会場は大盛況、入りきらないくらいのお客さんが来ていましたが、思ったよりご高齢の方が多いのが印象的でした。
命日ということで、実際に故人と親交のあった方などもいらっしゃったのかもしれません。
展示はとにかく盛りだくさんで、今までさんざん読んできた名作の原画がこれでもかと用意されており、入ってすぐ、私は胸にこみあげてくるものがありました。
その短い生涯の中で驚異的な量の仕事を残した上村一夫ですが、ほんの一部を選んで展示しているといっても、何か圧倒されるものがあったのです。
とくに私が印象的だったのが、漫画家として以外の仕事で、イラストレーター時代の広告作品や、レコードジャケットなどに釘づけになりました。
てかこれ、ポスターにするなりして欲しいです!
上村一夫の描く女性は、とにかく情が深いのです。
それが愛情なのか憎悪なのかはわかりませんが、我々男には想像もできないくらい深い感情を内包できる女性という存在への畏怖が、私には感じられます。
男はロマンチストで女は現実的、よく言われるこのステレオタイプは、日常において確かにその通りだと思う場面が多いのですが、本当に気持ちが入ったときの女性の情の深さは、男には絶対に到達できない領域にあるように思います。
上村一夫の描く女性は、そういった男には決して入ることのできない領域で深く愛し、哀しみ、時に怨んでいるようです。
女たらしとかそういう意味じゃなく、この人は本当に女性が好きだったんだろう、そしてそれは、表現者として不可欠にして最高の資質なのだろうと思います。
この展覧会、3月27日まで開催されており、3月19日にはなんと曽我部恵一さんのミニライブもあるということで、上野とか谷根千に行かれた際はぜひ立ち寄られることをおすすめします。