布団あります まくらことば活動日記

歌ものロック/ポップスバンド、まくらことばのブログです。

生真面目な人たち

サトー「最近スウェードをよく聴いてるのね」

佐藤「ほう、あのブレット・アンダーソンとバーナード・バトラーの」

サ「いやスウェードに関してはさ、ただ聴いてたというよりファンだったから当時。そういうバンドってなんか気恥ずかしいというか、聴かなくなったらとことん聴かなくなっちゃうよね」

佐「そうねー、我々はスウェード好きだったからなぁ。バーナードの真似して古着の赤いシャツ着てみたり」

サ「写真集買ったりな。自分がその当事者だったもんだから、あのバンドってティーンが夢中になるようなもんでしょ、というカテゴリに入っちゃって長いこと聴いてなかったんだよね」

佐「でも改めて聴くとすごくよかったと」

サ「そうなんですよ、すごくね。そんで思ったの、スウェードってのはさ、良くも悪くもメディアによって作られた側面があって、それによって肝心の音楽に霞がかかっちゃったというか素直に聴けなかったところがあるよね」

佐「あのバンドはロックの正統を継承することを真剣に目指してたよね、90年代において。きらびやかなロックスターの系譜に名乗りを上げるという。メディアもファンもそれを後押ししてたんだけど、結果から言うとやっぱりそれは時代錯誤だった。直後に大ブレイクしたブラーとオアシスはきわめてメタ的というか、伝説的なロックをネタとして取り入れて自分たちの表現を構築していたからね。フリッパーズとかもそうだけど、その頃からそういう1周回った感じの人たちが出てきて、今や4、5周回った人たちの時代って感じだよな」

サ「メタ的、とかいうとなんか批評っぽいんだけど、要するに衒いというか照れ隠しなわけじゃない。でもスウェードはそういう要素ゼロだったよな、本気で、ネタじゃなくロックスターたらんとしてたよね。結果お定まりの分裂劇に至ったわけだが」

佐「2代目ギタリストのリチャード・オークスも達者な人だけどね、やっぱりバーナードは特別。バーナードとブレットという、レノン=マッカートニーとかミック&キースのような黄金コンビがあってこそ、スウェードは“らしい”バンドだった」

サ「となると1st『suede』と2nd『Dog Man Star』ですよやっぱり。あの2枚のアルバムはね、今聴くとすごいよ。曖昧なところがないというか、味みたいなものでお茶を濁してるところがないの。全編が鉄の意思と理性に貫かれてるというか、とにかく名盤をつくるんだ!と意気込んで全力投球した作品」

佐「すがすがしいよね。多くの人は音楽をやっていくうちに才能の限界というか大体自分ってこんなもんだよなってのが見えてきて、それでもなお続ける場合に、さっき君が言った味方面に手を伸ばしていくんだけど、初期スウェードはそういうのを一切拒絶してるよね。おれは才能すごいんだ、歴史に残る名盤をつくるんだ、ビートルズデヴィッド・ボウイに連なる存在なんだという気負いがあふれている」

サ「その気負いがね、20年以上経って臭みが消えてきたというか、聴き手に刺さらなくなってきたんだよね。その状態で聴くと、もう純粋に素晴らしい作品。曲は適度にアバンギャルドだけどわかりやすくて、しっかりした土台の上にチャレンジがあってという、ポップミュージックのお手本みたいなレコードなんだよ」

佐「歌詞はね、倒錯的・変態的なものが多くて、本来理性的なブレットのパーソナリティを考えると借りて来た感は否めないんだけど、まぁあのバンドが四畳半フォークみたいなこと歌ってもね。世界観の統一ということではやっぱりあれしかないと思う。そんでやっぱり、バーナードのギターだよね」

サ「90年代以降のギタリストではきわめて珍しいスタイルだと思う。オルタナ以降のギターって、カッティングでもフレーズでもとにかくキレが重視されるんだけど、バーナードはスポーティー方面行かない。妖しさとかひっかかりを追い求めるんだよね」

佐「全然話変わるんだけどさ。スウェードの生真面目さみたいなことを考えているうちにもう一人のアーティストが思い浮かんだ。テレンス・トレント・ダービー!」

サ「ああ、あの人も生真面目だよね! 今さ、ディアンジェロ以降、ネオソウル以降を聴いてしまった耳でテレンスを聴くと、スウェードと同じような印象を受ける。真っ直ぐにブラックミュージックを追求してる感じ」

佐「ネオソウルはさ、ディアンジェロみたいな身体性への回帰とか、ロバート・グラスパーみたいな批評性とか、やっぱメタ感あるじゃん。テレンスはその前夜、ブラックミュージックとロックを融合させて、総合的な音楽をつくるんだという衒いのないまっすぐな意思が感じられるよね」

サ「なんていうかな、世界観がWe are the World的というか、バンドエイド的というか。人種を超えて世界は一つになれるんだみたいな80年代的ユートピア観を背負ってる感じあるわな。白人にもいいと思われるソウルをつくるぞみたいな」

佐「ゼロ年代以降にはあんまりない感覚だよね。スウェードとテレンス両方に言えるのは、やっぱりメディアの存在を介した表現ということにつきると思うんだ。今みたいにアーティストが直接マスに語り掛けることが技術的にも不可能だった時代、やっぱり自分の表現をいったんメディアに預けて、意味づけてから世に問うという流れがあったと思うのね。その中で彼らは、タコツボ化するムーブメントを忌避し、総合的で輝かしい60年代、70年代にあったような王道を目指した」

サ「すごい気負いだよね。でも結局それは、メディアに預けてるっていう時点で最終的にムーブメントに回収されちゃうんだ。それ以降は結局、『何周してるか』が問われる大いなるメタ時代に突入し、メタ感を持ち合わせない彼らは一時、時代の徒花的扱いを受けたのかもしれない」

佐「でもやっぱ作品が強靱だからね。話に尾ひれがついてた部分とか全部取っ払って今聴くと、純粋にいい音楽だと思う」

サ「そうは言ってもね、最終的に強いのはやっぱり、時代情況とか関係なく好きなことやってる人の表現だと思うんだよね。最近よく聴いてるヴァン・ダイク・パークスとかさ、スラップ・ハッピーとかさ、最初はわけわかんなくても聴けば聴くほど引き込まれていくんだよね」

佐「それは極論、ポップミュージックが大衆文化なのかファインアートなのかみたいな議論になるんだけど、やっぱりおれはね、“時代と寝る”意思のある人の表現って、一時的かもしれないけどパワーあると思うから。そしてそこに果敢に挑戦する心意気も買いたい。そうした表現って10年したら色褪せるかもしれないけど、20年したらまた輝いてくるかもしれないよ」

サ「なるほど。ま、スウェードも聴くしスラップ・ハッピーも聴くというね。いいもんはいいってことで」

佐「それでいいんじゃない。真面目な人好きだしね、おれら」