広島カープと私
スクールカースト、という言葉が定着して久しい。
昨今の伝え聞く小学生事情などからすると、そのメカニズムは複雑を極め、具体的なガジェットの使いこなしからキャラ選択まで、今日日の子供たちが直面している状況とは相当タフなものなのだろうと推察される。
とはいえ、私が小学生の頃にも明確にスクールカーストは存在した。
しかしその内容は至極単純なメカニズムで設計されていて、要はケンカの強さと運動神経の良さ、ほぼそれのみを評価項目とした、まことに単純な序列のことであった。
進級に伴ってここに文化的要素も加味されるようにはなるが、ヤンキー度数のみが評価されるいたってシンプルなものであり、それは小学生時のフィジカルな序列と限りなく地続きの関係にあった。
私にとって最悪だったのは、運動神経と暴力的・威圧的指向性はともに自分にとって最も縁遠い資質であり、宿命的に序列の下位にプロットされるシステムであったことだ。
比較的勉強は得意だったので私は大人が介入する領域では相対的に高い地位を確保できたが、子供だけの世界が厳然と存在し、その占有率が日常の大半を占めていた当時の私たちにとって、それはほぼ意味を持たないことであった。
だから私の悩みの種は授業時間よりもむしろ休憩時間と放課後に集中しており、できれば延々と授業が続けばいいのにと本気で思っていた。
苦痛のありかは退屈な授業ではなく、休憩時間に繰り広げられるいかにも男子な暴力の香り漂う肉体的遊戯であり、放課後のプラバット野球であったのだ。
休憩時間と放課後の王者たちはみな野球の達人であり、彼らは下校後、判で押したようにカープの帽子をかぶってプラバット野球を主宰した。
本拠地の広島市に比べれば熱気は劣るであろうが、県東部の子供たちにとっても、カープは憧れの存在だった。
おりしも時はカープ黄金時代、北別府、大野、川口といった名投手を擁した当時のカープは投手王国と呼ばれ、事実リーグ優勝、日本シリーズ制覇も成し遂げていた。
ある種の感性を備えた人間にとって、反体制的なものは無条件に魅力的である。
長じてロック音楽にかぶれる私は、もとよりそうした気質を持ち合わせていたと思われるが、それゆえにカープは、私にとって憎悪の対象であった。
カープは私を苦しめる粗野で馬鹿な連中の象徴であり、広島県においては完全に体制そのものであったのだ。
あの土地では巨人や阪神を愛することのほうがよほど反体制的であり、実際少数派の巨人ファンは先鋭的な存在であったが、私はむしろ、野球いやスポーツそのものを憎悪の対象にしていたから、本当はプロ野球のことなどどうでもよかった。
ただ当時はオタクという言葉もなく、腕力のヒエラルキーから脱落した者はほとんど即身仏の領域に達していたので、私は男子世界の序列にしがみつかざるを得なかった。
すべてに背を向けて生きていけるほど私の世界は閉じておらず、精神は強靱でなかったのだ。
私は圧倒的に不足した技量とぎこちない動作のまま、それでもプラバット野球に参加した。
そんな風にして子供時代を過ごし、中学はヤンキー校、高校はスポーツ校になぜか進んでしまったので、私は思春期においても常に居心地の悪さを感じ、主力生徒への憎悪を自らにチャージし続けた。
そして私を苦しめ虐げる「やつら」の象徴の一つとして、広島カープは存在し続けた。
その後東京にやってきた私は、自分と同じ文化圏を共有し、似たような感性をもつ友人を得た。
私はようやく、自分に不利な序列の中で生きることから解放され、自らの資質と経験を全開することの許される環境に身を置くようになった。
私は田舎の狭い世間や遍在する同調圧力をしばし忘れ、東京生活を満喫した。
そしてアウトサイダー気質への憧れもあり、将来のことなど何も考えないままの日々を過ごしていたが、不安の萌芽を覆い隠すだけの解放の喜びがそこにはあった。
その頃、カープは黄金時代の遺産を使い切り、1993年に導入されたFA制度、逆指名制度の負の影響をもろに受け、暗黒時代に突入していた。
自分の資質に忠実に生きることができる環境とはつまり、言い訳なしに結果が問われる世界でもあった。
私の愛する世界は常に、私に「何者かである」ことを要求するが、私はいつまでたっても何者にもなれなかった。
音楽か本――それくらい漠然としたものではあったが、私は自分の将来をいずれかの世界に置きたいと思っていた。
しかし何かをしなければという思いが堆積する一方でいっこうに手足は動かず、焦りだけが募る日々を過ごした。
そして焦りに突き動かされた私は、迷走と呼ぶにふさわしい時間で20代の前半を埋め尽くしていた。
そんな折、私の目はふと広島カープに向いた。
当時のカープは苦しい台所事情のなか主力選手の流出が相次ぎ、厳しくなったチーム事情のなか怪我人が続出してさらに苦しくなる……という悪循環に陥り、絵にかいたような低迷期を迎えていた。
しかし低迷期は同時に、実績を持たないものにとってチャンスでもある。
東出や新井、そして黒田といった新戦力が台頭し、時には強い巨人を相手に互角の戦いを繰り広げていた。
それでも圧倒的にチーム力に差のある状況だったので、シーズンを終えると5位の定位置に収まるのが常であった。
かつて私にとって、カープは粗野で威圧的なものの象徴であったが、今はどうだろう。
苦しいチーム事情の中で、なんとか強豪チームに一矢報いるべく、明日なき戦いを続けている。
かつての栄光は消え、新しい顔ぶれを交えて日々繰り広げられる必死の総力戦。
その姿を、田舎者で何者でもない自分が東京でもがいている姿に重ねるようになるのに、それほど時間はかからなかった。
私は生活するのがぎりぎりのフリーターとしての収入からなんとか交通費とチケット代を捻出し、神宮球場や東京ドーム、横浜スタジアムでのカープ戦に駆け付けた。
観戦した試合でカープが勝利する確率は高くなかったが、それでも最後まで、スクワットをしながら声援を送り続けた、何しろ金がなかったので、ビール1杯も飲むことのないまま。
そういった日々を、たぶん26歳くらいまで続けた。
私はわかっていたのだ。
カープを応援するふりをして、東京になんとかしがみついている自分を鼓舞していたことくらい。
それからまた時間が経った。
私は自分が、「何者」かになることができたかどうかはわからない。
ただ、それが生業であれ趣味的領域であれ、自分のすることが私一人ではどうにも完結しない仕事に関わるようになった頃から、私を捉えていたあの焦燥は消え去っていった。
この世で最も「自立」からほど遠い存在であるのは生まれたばかりの赤ん坊であるが、彼が自立していないのは、自分を支える存在を母親以外に持たないからだ。
自立した存在とは、誰の支えも必要としない者とは真逆の、自分を支えてくれる人間が多数存在する者のことであり、例えば彼は母親を亡くしても他の多くの人たちの支えで立っていられることができるだろう、そのことをもって自立というのだ――
この考えをどこかで読んだとき、私から焦燥が消え去ったのは、きっと私が真の意味で自立を果たしたからなのだろうと思った。
そして、私が誰かに支えられる資格を有していられるのは、私自身が誰かの支えになっているという、互恵的な関係が成立している間だけなのだろう。
そういったことに私が少しずつ気づき、東京で気負いなく生きていけるようになってきた頃、カープも長い冬の時代を終わらせつつあった。
生きのいい若手と低迷期を乗り越えたベテランがかみ合って織りなす野球は、贔屓目なしに魅力的なものに思えた。
今年、広島カープは、本気で優勝を狙えるところまできている。
そして、あの低迷期にチームを支え続けた黒田博樹が、有終の美を飾るべく広島に帰ってくる。
私たちファンの期待は、ここ20年でも最大値を更新し、さらに新しいファンを巻き込んで、大きなうねりとなっているように感じられる。
うねりはやがて上昇気流を生み出し、間違いなく鯉のぼりを天高く舞い上がらせるだろう。
私はかつてカープを憎み、そしてカープを愛してここまでやってきた。
それは、愛憎入り混じった郷里に対する思いの相似形であり、私をかたちづくるものの一つなのだろう。
広島カープを支える多くの人々と同じように、私もまたこの球団を支え、それ以上に支えられてきたのだ。
かつてビール1杯も頼むことができなかった若き日の自分のためにも、今年は球場で多くの美酒を、仲間とともに味わいたいと思う。