雷雨の夜にトンネル
おはようございます、サトー@まくらことばです。
この3連休、皆さんはいかがお過ごしだったでしょうか。
もう梅雨明け宣言は出たのかな、すっかり夏本番といった感じの3日間でしたね。
さて、あれは一昨日でしたか、凄まじい雷雨に見舞われましたよね。
あの日はひと夏分の雷が東京に落ちたんじゃないかという感じで、映画「野獣死すべし」で鹿賀丈史がフラメンコダンサーを撃った夜もかくやの稲光と雷鳴がとどろいていました。
あの時、私は運悪くランニングに出ていたんですねぇ。
家を出た時点で、「あ、これは夕立の前兆だ」という風が吹いていたのですが、まぁ濡れるくらいならいいかと思い、いつものコースを走っていきました。
すると大蔵あたりから雨足が一気に強まり、ゲリラ豪雨の様相に。
私はドブ板選挙中の政治家よろしく完全な濡れ鼠で走り続けたのですが、遠くで雷の音がし始めたため、正しく「地震、雷、火事、オヤジ」の順に恐れをなすものとして、岡本の坂を上り切った地点で急きょ折り返し家路を急いだのでした。
と言ってもこの時点で4キロくらいは走ってきていたので、いざ帰ろうとなっても思った以上に道のりは遠く。
途中、同じく家路を急ぐ自転車の人たちと何人もすれ違いながら、「そういえばこの辺は陸の孤島で、最寄り駅はどこも遠いんだよな」などとお互いの境遇を心の中で慰めあいました。
次大夫堀公園のあたりまで戻ってきたところで、成城の丘の上に一筋の光が突き刺さり、一拍置いてから天地鳴動のような響きが。
「やばい、雷雲はすぐそこだ!」と、私はどこか屋根のあるところに避難することにしました。
次大夫堀公園には「パズルトンネル」という多摩堤通りの地下を迂回するトンネルがあるのですが、とりあえず間近で屋根のあるところはそこしか思い浮かばなかったので、急いでパズルトンネルに逃げ込みました。
このパズルトンネル、世田谷の住宅地に位置するため壁一面スプレーの落書き、なんて荒れてはいないのですが、昼間でも暗くてひんやりしたこの場所はあまり気持ちいのいい空間ではなく、できれば足早に走り抜けてしまいたいところです。
私がパズルトンネルに逃げ込んですぐ、雷雲はどうやら真上にやってきたようで、そこからは稲光と雷鳴がこれでもかと言わんばかりに連続しました。
具体的にその辺に落ちたんじゃないかというものも含め、すさまじい轟音と地響きがトンネル内部に共鳴して、私は動悸の昂ぶりを抑えることができません。
さっきまで夕刻の様相をしていた空は、稲光に照らされる瞬間を除けば確実に闇の成分を増しています。
土砂降りの雨と絶えることのない雷は気づけば30分以上も勢いを弱める様子がなく、次第に雨に濡れたランニングウエアが体温を奪い始めています。
こんな雷雨の夜に、気味の悪いトンネルの中でひたすらじっとしている――当たり前ですが、私がここに来てから通行人は一人もなく、ここがどこか誰も知らない僻地のように思えてくるのでした。
私は走るとき何一つ荷物は持っていませんから、携帯電話も小銭もあるはずがなく、家に連絡をしようにも手段がありません。
一向に弱まる様子のない雨と雷を眺めながら、私は本当に久しぶりに、底なしの不安に絡め取られる思いがしました。
「ああ、なんで自分はここでこんなことをしているんだろう――」
トンネルを抜けた先に見える民家の灯りを見て泣きそうになるくらい、私は不安で孤独でセンチメンタルな存在になってしまったようです。
小一時間くらいパズルトンネルで待機して、雷雲が南のほうに移動し雨足が弱まってくると、私は文字通り脱兎のごとく家に逃げ帰りました。
この時ほど、普段から走り込んで、脚力と心肺機能を(ある程度)鍛えている恩恵を感じたことはありません。
子どもの頃、アニメ「トム・ソーヤーの冒険」が大好きで、主題歌「誰よりも遠くへ」をよく口ずさんでいました。
お前ならいけるさトム
誰よりも遠くへ
地平線のかなたで待っている
素晴らしい冒険が
少年時代の私は多くの男の子がそうであるように、秘密基地をつくったり学校の裏山に登ってみたり、とにかく冒険めいたものが大好きでした。
トム・ソーヤーはそんな私にとって憧れの存在であり、自由を謳歌するトムのような生き方がしてみたい、おれもそうするんだと思っていました。
しかし今、「誰よりも遠くへ」の歌詞をこうやって思い返してみると、その"果てしのなさ"に愕然とする思いがします。
誰よりも遠く行った先、地平線のかなたに待っているのは、他でもない次の冒険だとは――それまでに十分冒険してきたというのにまた冒険かよ――ほんの小一時間、トンネルの中とはいえ東京の真ん中で雨宿りしたくらいで不安の極致に達するような人間に、冒険の次にまた冒険がやってくるような生き方は辛すぎるなぁ、絶対にできんわ。
芸術が素晴らしいのは、創作の中でならどのような人生を生きることもできるからだ、そんなことを誰かが言っていたのを思い出します。
一回限りの人生においても、芸術に触れることで様々な疑似体験ができるというわけで、それは必ずその人の人生を豊かにするものだというのです。
多くの少年たちにとってそうであったように、そして作者のマーク・トウェイン自身にとってもひょっとしたらそうであったように、トム・ソーヤーやハックルベリー・フィンの生き方は、できないがゆえに自分を投影してみたいものなのだろうと思います。
(子どものころから抱く)冒険者や旅人への憧れと、(大人になって知った)どこにも行けない現実、この2つががせめぎあう瞬間に抱く気持ちをとらえたい――これって結構、まくらことばの歌のテーマなんじゃないかと、久しぶりに心底不安に浸った私は考えてみるのでした。