布団あります まくらことば活動日記

歌ものロック/ポップスバンド、まくらことばのブログです。

オザケン登場に思ったこと

おはようございます、サトー@まくらことばです。

ようやく春らしくなってきました。

予想では今週にも桜が開花するとのことですが、お花見ってやつにはですねぇ、私ちょっと言いたいことがありましてね。

いや花見ってさ、かなり過酷な行事だと思うんですよね、少なくとも「たのしー」とか「キレー」とか、スイーツなリアクションで済ませられるもんじゃねぇだろう、あれは冬山登山に次ぐくらいの難儀なイベントだろうと。

だってさ、今年に限らず桜の咲く頃って結構、いやかなり寒いよね?

そんな時期に野外でビール飲むとか、ホント「ザ・ガマン」みたいなもんで、私みたく近い人は5分に1回トイレに行きたくなって、しかも公園のトイレは大行列で衛生状態は地獄だし、さらに冷え込む夜桜とかもうトイレの行列に並んでた記憶しかないですよ。

これはひたすらおしっこを繰り返してその回数を競うゲームか?みたいな。

さらにこの時期って一年のうちでもかなり風の強い季節だから、敷物やらポテチの袋やらが風で飛びまくって落ち着いて飲食するどころの騒ぎじゃない。

おまけに花粉の最盛期でもあるから寒さと相まって鼻水はとめどないし、ほんで鼻をかんだティッシュが風で飛んで誰かの取り皿に入って……かように相当不如意なコンディションを強いられるのが花見じゃないかと思うんです。

だからさ、別に花見そのものを否定するものではないんですが、「お花見行こうぜ」というのは「飲み会やろうぜ」というよりは「八ヶ岳登ろうぜ」に近い提案であることを十分認識したうえで、世の皆さんには花見を敢行していただきたい、そんな風に思っている次第であります。

 

さて、3/20の「笑っていいとも!」、みなさんはご覧になりましたか。

私はようつべで観たうえで日曜日の増刊号で観ましたが、第一印象はオザケン、やっぱりかっこいいなと。

確かに時間相応に年は取ってたし(それでも世間標準から言ったら驚異的に若いけど)、少し声に張りがなくなっていたようにも感じましたが、あの佇まいというか雰囲気、まんま僕らの知っている小沢健二その人でしたね。

うん、やっぱりあの人って今もキュートというかチャーミングというか、絵ヅラだけでも引き込まれるものがあるというのはちっとも変わってなかったなぁ。

それでなんていうか、あの「僕らの代表」感。

やっぱりオザケンは、芸能人って感じしないんだよなぁ。

 

それでね、みなさんもそうだったと思うんですが、すごく感動的だったんですね。

なんだろう、オザケンタモリに対する敬意と感謝の気持ちが素直に伝わってきて、タモリオザケンのこと認めてるんだろうな、というのが感じられて、このタイミングで二人が会ったことに必然みたいなものを感じました。

そしてオザケンタモリに歌詞を褒められた「さよならなんて云えないよ」を歌ってみせましたが、あの少し変化した声で歌われる「さよなら~」の言葉が、改めて染み入りました。

「2度と戻らない美しい日」にいることを知りながら、それを「僕は思う!この瞬間は続く!」と力強く肯定してみせることの「美しさ」。

それを歌の中に見つけ心動かされたタモリが、若き日のオザケンに伝えた「好きなんだよね」というさりげない褒め言葉が、今までどれだけオザケンのことを支えていたのか、その大きさと深さに気づき、私ははっとした思いをしたのです。

そうか、オザケンも人の子なんだと。

 

私たちは小沢健二という、日本ポップカルチャー史上もっとも怜悧なパーソナリティーに対し、どこか身構えるような気持ちでいたのではないか。

90年代後半のオザケンは、流行りモノとしての人気とコアなリスナーからの評価を両立しているように映っていましたが、本人は実は孤独だったんじゃないか――かなり穿った見方かもしれませんが、彼がその後長い(ほぼ)隠遁状態に入ったことを考えると、あながち深読みにも思えない。

そう当時、いや今もだな、「コアなリスナー」を標榜する人たちの間には、オザケンのやることなすことに対し深読みが横行していて、素直に彼の表現を受け止めることができなくなっていたのかもしれない。

まぁ私なんてその典型ですが、オザケンのやることにはいつも常人には理解できないような深いメッセージが含まれていると思い込んで、素直に「いいね」と言う前に「すごい!」と神格化してしまう雰囲気があったのではないか。

生身の自分を超えたイメージとしての小沢健二が一人歩きしている、彼はそれに嫌気がさして「線路を降りる」(@「ある光」)ことにしたのではないか――それこそ深読みかもしれませんが、そんなことを思ったのです。

そういえばオザケンは確か、「犬」のライナーノーツで、こう書いていました。

僕がこのCDに望むのは、車の中や部屋の中やお店の中で、小さな音ででもいいから何回かかけられることだ。歌詞なんかうろ覚えのままで口ずさんでもらったりすることだ。

 

とはいえ、やっぱり歌詞にはこだわりをもっているオザケンだから、深読みとか神格化ではなく、自分の言葉をきちんと受け止めてほしいという思いはあったでしょう。

そこでタモリオザケンに寄せた「さよなら~」の感想はまさに素直な感動と共感であり、アーティストとして心から嬉しい反応だったのだと思います。

私がオザケンも人の子だって思ったのはね、やっぱり褒められたことって絶対忘れないし、その人の支えになるんだって、それはあの小沢健二もおんなじなんだなってことなんです。

(私がお気楽な人間だからかもしれませんが)酷いことって言われたときは「絶対忘れねぇ」と思うんですが意外とあっさり忘れちゃうもんで、まぁそのほうが精神衛生上よろしいとも思うんです。

でも褒められたこと、これは絶対に忘れないし、長い期間にわたって自分を支えるものになったりもする。

それはみなさん自分のなかに必ずあると思うし、何よりオザケンの見せたタモリに対する感謝の気持ちがそれを証明してると思うんです。

 

だからね、やっぱり感動を相手に伝えることって大事なんだなと。

私は何かにつけ「一言いいたい」人間なので文句や悪口が人一倍多く、そこは変えていかなきゃなと思いながらも「もう仕方ないじゃん」と開き直っているところもあって。

だとしたらなおさら、誰かを褒めることも人一倍やっていかなきゃいけないと、2人の姿を見て思いました。

それも、「いいね」をポチって事足れりというのではなく、タモリオザケンにそうしたように、自分の言葉で素直に感動を伝えることをしていかなきゃ、と。

何より私自身が、あの人やあの人に褒められたことを支えにして、今まくらことばをやっているので、ね。