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布団あります まくらことば活動日記

歌ものロック/ポップスバンド、まくらことばのブログです。

ちょっと最近、スピ入ってきたかも

恭介

おはようございます、サトー@まくらことばです。

冬の雨が今朝も降っています。

傘を忘れた私は、地下鉄の駅を出て呆然としてしまいました。

 

さて、当たり前の話なんですが、誰にとっても現在というのは未知の時間なわけで、最新の自分を更新しながら私たちは生きています。

なんですが、今自分が未知を切り開きながら生きていることを自覚することは現実には少なく、生活時間の大半を占めるルーティンに身をゆだねながら、経験則に照らしていろいろな物事にあたっていくのが私たちの日常生活なわけで、30代後半にもなると、「あ、このパターンね」とそれなりに過去のストックを参照する機会も増えると。

なんだけど記憶ってのは頭がパンクしないように順次忘却の彼方へ消え去っていくもので、無意識的には重層的なのかもしれませんが、それなりに編集されたものだけを取り出すような仕方でわれわれは生きている。

だから日々歩いていく上で重荷になるくらい過去を背負い込む必要もなく、適度な新鮮さと老獪さのバランスでもって、特に中年期以降の人間は成り立っているんだろうな、なんて思うわけです。

私もここまで馬齢を重ねてきましたので、これまでの時間においていろいろなことがあったわけですが、30過ぎたあたりからでしょうか、「あ、この感覚は前にもあったな」という自分内在庫がそれなりに整ってきたような気がしてきました。

「まぁこの状況だったら、自分の動き方はこれかな。前回はあれで失敗したからな」みたいな。

私は自分の経験則がそれなりに太っていくこと、それと相反して物事から受け取る驚きや新鮮な印象が減じていくことに対し、一抹のセンチメンタルな気分は抱きつつ、これが成熟ってやつなんだろうと、どちらかといえば言祝ぐような態度でいたと思います。

 

なんですが、まくらことばを始めてから特に感じるのですが、最近、本当におれは何もわかっていないというか、自分が手をつけたものなんてとるに足りない範囲にとどまっているなぁと思い知らされるんですね。

自分の起こしたアクションに対し、相手がどのように反応してくるのか、以前はなんとなく見当がつくというか落としどころが見えていたような気がするのですが、今はホントわかんない。

在庫をさらってみてもほとんど役に立たない。

それは具体的には新しい曲を作ってメンバーに聞かせたり、音源にして周囲の人に聴いてもらったりしたときの反応が予想不能というのがそうだし、やっかいなことに、バンド活動以外でもそういったことが増えているような気がするのね。

もちろん何事においても資質とか経験の上に今の行動が成り立っているとは思うのですが、「ありモンでこんな感じで」みたいなのはたぶん、今の自分のいる場所では受け容れられないというか、もちろん自分の中にある材料以外で何かをつくったりすることはできないんだけど、最終的に神秘の領域に預けたものじゃないとどうやら通用しねぇな、みたいなことが分かってきた気がするんですね。

 

さらに気づいたこととして、努力とか継続の大切さは言うまでもないし、てか自分ができることってそれくらいしかないのですが、自分にとって本当に大切な局面って、必ず他人が鍵を握っているんですよね。

これは他力本願というのとはちょっと違って、その鍵を持っている人を探し出して会いに行き、その人に対し、自分の資質やら経験をもとにした何かを神秘に委ねて差し出してあとは拝む、みたいなイメージかと。

ちょっとサトー、なんか信仰し始めたんじゃね?みたいな話をしておりますが、物事って考えれば考えるほど、どうも宗教っぽくなっていく気がするんだよねぇ。

 

だからね、政治家とかスポーツ選手がよく使う、「人事を尽くして天命を待つ」って言葉があるじゃないですか。

あれって使われ過ぎててなんか俗なイメージにまみれてるんだけど、ホントすげぇ言葉だなっていうか、もうこれに尽きるわ、みたいに思うんです。

うん、もうよくわかんないんだけど、そんな感じでまくらことばも私自身の日常もやっていく所存。

とりあえず今日出来る「人事」として、帰りに32ギガのSDカードでも買いに行こうかな、そんなことを考えている雨の朝でした。