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布団あります まくらことば活動日記

歌ものロック/ポップスバンド、まくらことばのブログです。

ラッセン問題とクイーン問題

おはようございます、サトー@まくらことばです。

最近、こんな本を読みましてね、いろんなことを考えるきっかけになったんです。

ラッセンとは何だったのか? ─消費とアートを越えた「先」

実はこれに先立ち、先日仲間内で「ラッセンって何なんだろうね」という話題が出まして、その時は「とりあえず上手い」という(笑)かなり強力な結論が出されたわけですが、ラッセン、ホント何なんでしょうね。
いや、ラッセンの絵を「薄っぺらい」だとか「ダサい」って言っちゃうことは簡単なんですよ。
簡単なんだけど、実際そうやって切って捨ててもいいんだけど、なんか引っかかるものが残る。
それは多分、いろんなものを見たり触れたりして形成された審美眼みたいなものはラッセンを拒絶してるんだけど、審美眼が起動する前段階の、本能というか後天的に積み上げたものとか理性ではどうにもならない部分が反応してしまうからじゃないかと思うんですね。
通り過ぎるんだけど二度見しちゃう的な。

私は何がそうさせるのかって考えたとき、やっぱりラッセン作品がもれなく装備している「過剰さと下世話さ」がその犯人だと思うんです(なんか前エントリーの吹雪様と同じ話をしているのかもしれない)。
これっていわゆるヤンキー論壇を駆動しているものとも同じで、自分の「趣味」はそういったものにゆめゆめ反応しないはずなんだけど、肉体レベルではそういったものの受容体が自分の中にあるもんだから気になってしょうがないし、拒絶するにしても近親憎悪というか自分の中で眠っているものを起こしてしまうんじゃないかという恐怖感がある。
これって生まれ育った環境も大きいだろうけど、やっぱり人って「過剰さと下世話さ」を本能的に求めてしまうところがあるんじゃないかと思います。

で、ラッセンの絵を見たときのあの感じ、そういえば音楽でも経験があったなと。
そう、クイーンを聴いたときのあの感じなんですよ。

ラッセンの絵が好きだ」と公言するのに較べ、「クイーン好きなんです」とカミングアウトする社会的障壁はかなり低いですが、それでもやっぱりクイーンですからね、オーガニックなカフェで「ボヘミアン・ラプソディ」がかかってて“ガリレオガリレオ~”とか“ビスミィラッ!”ってなったら、やっぱカフェラテ噴き出しちゃいますよね。
個人的にもクイーンの恥ずかしいエピソードがありまして、高校の時くらいかな、家族で出掛ける際、クイーンの「グレイテスト・ヒッツ」を車内でかけてたんですが、「バイシクル・レース」の自転車のベルをちゃりんちゃりん鳴らすところで、親父が「どうしたんなぁ、おい! 故障か!?」と高速道路上でパニックに陥る一幕がありまして、「……いや、これはこういう音楽じゃけえ」「何にゃあこりゃわざとか。おみゃーはけったいな音楽聴きょーるのう」と、ちんこ見られるのに匹敵する恥辱を受けたことを思い出します。

いや、私クイーン好きなんですよ。
でも「サトーは音楽何が好きなんだ?」と聞かれて、まず「クイーンだよ」とは答えない。
だって恥ずかしいからね。
でも好きだから、友達の前では聴かないけど一人でこっそり聴いちゃう。
人をそのような行為にいざなうあの過剰さと下世話さ――まさにフレディ・マーキュリーのパーソナリティとヴィジュアルが体現しているように――って、やっぱり「隠しきれない」「どうしてもまろび出ちゃう」ようなもので、だからこそ私たちはそれを無視できないというか、むしろぐっとくる対象にしてしまうんでしょうね。
そう、「下世話さと過剰さ」が様式美みたくなって“ありき”とか“目指すべきもの”になったら途端につまらなくなってしまうわけで、「こうならざるを得なかったんだなぁ」という“業”が感じられるかどうか、そこがポイントなんだと思います。

こうなってくると程度問題で、クイーンはいかにもだけど、例えばビートルズだってそういったところがあるし、洗練の極致とされるスティーリー・ダンだってどっか過剰だったり下世話なところがある。
一時期私、「音楽の進化とは洗練だ!」って盛り上がって、それこそAORとかMPBとか聴きまくってたんですが、聴けば聴くほど“洗練”と“のっぺり”って似て非なるものなんだなぁと思いました。
AORの名盤と言われるものも随分聴いたけど、なんのひっかかりもないオシャレ音楽はやっぱり聴かなくなって、結果SD最強という結論に至ったわけです。
MPBだって、今も繰り返し聴くのはヌルいボサノヴァみたいなんじゃなくてマルコス・ヴァーリだったりする。
確かに彼らの音楽は洗練されているんだけど、「洗練に対する業」という過剰さ(ドナルド・フェイゲンに至ってはほとんど狂気)が確かにあって、そこが感動ポイントなんですよね。
「クールであるために思いっきり熱くなってる」というパラドックスなんだけど、いい音楽には必ずそういった“ひっかかり”が構造化されているんだと思います。

実は吹雪様の筋でわれわれの「枕じゃなくて招待状」のデモを聴いてくださった方の反応で、「渋谷系みたいなかわいい曲」というリアクションがあったらしいんです。
私これを聞いて嬉しさ半分、「やべえ、軌道修正しなきゃ」という反省半分の思いがしました。
たしかにマーケティング的には好ましいリアクションなんだけど、作品としてはどうなのかと。
繰り返し聴いてもらえるような作品に必要な過剰さと下世話さ、すなわち業が足りないんじゃないかと。
やっぱりみんなラッセンの絵は部屋に飾らないけどなんか語りたくなるし、クイーン好きとは公言しなくてもipodには入れてるもんじゃないですか。
何より私自身、そういったものを身体レベルで希求しているわけで、そこには正直になったほうがいいと思うんです。
だから次の音源には、イントロにヘリコプターのSEが入ってる曲とか、吹雪様がツーバス踏みまくりのドラムソロが3分半入ってる曲とか、過剰さ満載で……ってそんなわけないですが、「まろび出ちゃった」程度のそれは入ってるかもしれません。

ところでラッセンですが、いろいろ考えているうちに、さすがに絵を飾ろうとは思わないんだけど、なんか小物程度は欲しくなってきちゃったわけです。
で、iphoneケースなんて手頃なのでは、ネタとしても絶対ウケるしと思って検索してみたら、ラッセン先生、しっかりビジネスしておりました。
世界限定10セット、すべてにシリアルナンバー入り(ナンバー0はラッセン本人が愛用!)、まるで絵画のような3度塗りの至極仕上!
そんでもってお値段なんと……100万円ナリ!!

……やっぱりラッセンはどこまでも「ラッセン的」なんだなと、呆れるのを通り越して感動した次第。