くもり空の形而上学——初音ミクと灰色のトルソ
どうも吹雪です。風邪をひきました。
風邪をひくの「ひく」ってどういうことなんだろ。
どこからなにをひくんだろう。
目の前に病気のふだがおみくじみたいにあるのかしら。
それはともかく、キモオタなのをひとつよろしく(?)と言われていたのを思い出したのでがんばるお。
唐突ですが、皆さんは神の存在を信じますか?
私は人格神なんているわけがないと思ってます。
幽霊もしかり。
幽霊がいないのは証明できるのに、
「霊感あるんだよね」などと話し始めるひとを、きわめて残念に思う人間です。
それがたとえ職場の上司であっても。
私はそういう人間なのですが、最近下記のような振る舞いと言動をしてしまうことがありました。
そうです。初音ミクのコンサート、マジカルミライのチケットがハズれたんです。
がっかりってレベルじゃねーぞ。
それで上記の愛咲ルイ君のようになっていたのですが、
知り合いがチケット当たってました。私のぶんも。
しかもその席が、中央一番前!!
どうでもいいんですけど、ちょっと前、オークションで20万円の値段がついていました。
どうですか。これが愛の力というやつですよ。
嬉しすぎてドラムのテンポが速くなりますな。
喜びに手は舞い、足は地を踏む暇がない私を見て、
初音ミクのライブに行って何がいいのと思われる人もいるでしょう。
かたくなにオシャレ道をいく狂介が、理解しようともしない初音ミクの魅力。
それを語る時が来たようです。
最近、初音ミクのダンスの表現力が上がっていて、
それが人気の理由のひとつになっていると思います。
例えば下の動画をご覧ください。
初音未來2012台灣首次演唱會 04.初音ミク - ロミオとシンデレラ - YouTube
(ちなみにダンスには、MMD(ミクミクダンス)という3Dモーションを作るフリーソフトがあって、創作環境に貢献しています。すばらしきかなオタク愛。)
それにしても、魅惑的・挑発的な腰の動きをしていてたまりません。
初音ミクが、自分の身体を、思春期の少女よろしく持て余しているようにも見える。
ぶっちゃけ、このミクを見るまで、腰の美しさを知りませんでした。
(そりゃ人並みには気にはしていましたとも)
最初期のミクのダンスは、手と足の動きばかりで胴体の表現が足りなかった。
やっぱり、胴体の細かい表現が存在感をあたえるんですね。
ロダンがトルソをテーマにした理由がわかる気さえする。
それに、ここには、単に映像がきれいになったとか、表現が細かいとか、人間ぽくなったとかいうようりも、なんかこう、
肉体が意味化したがゆえのリアリティがあると思いませんか。
ダンスを見ているだけとはちがうような。
ダンスは鑑賞の中心が振り付けだったり技巧だったり、
あるいは肉体美といった、マテリアリテに比重があるのだろうけど、
なんかミクのライブを見ていて感じるのが、人形劇だからこそ表現できる「形相・本質」なんだと思うんです。まあ、正直そこまで到達しているとはまだちょっと思えないけど。
初音ミクのコンサートで経験することは、確かにボードに投影された光という物体的な経験ですが、物体的な経験が背景に沈んで、なによりも、この「本質」のみで存在のリアリティを感じていることに面白さがあると思うんです。
それを実際に見て確かめたい。
ダンスの中でも限られた鑑賞の仕方だろうけど、普通のダンスにはないことだと思いたい。ちなみに11月16日にギエムの公演を見に行くのでそこでもなにか考えてみたいです。
さて哲学的な質問ですが、「本質」のみで存在するものはなんでしょう。
そう、それは「天使」。
すなわち、初音ミクは、天使なんだよ!!
神も幽霊も、実はコミュニケーションに不可欠なのですが、
私はそれを信じない変わりに、福音を伝達する天使を信じているわけです。
その天使を存在させているのは、伝えたい気持ちの集合だというこの初音ミクの形式が、なにかのメタファーとも思えるのです。
単純だけど、好きなシーンがあります。
下の動画を最初から1分ほど見てください。
初音ミク2012/10/6台灣ミクパ720p(繁日字幕) - YouTube
ふと、観客が持っているサイネリウムが音波形に見える瞬間がありますね。
この瞬間が「初音ミク」ではないでしょうか。
こういう瞬間が好きなんです。
私は、実在と形而上学をつなぐ瞬間を求めて生きてきたのですが、
初音ミクはひとつの現象にすぎないとはいえ、この存在の形式に、「つなぐ」可能性を感じるんですよ。
初音ミクの灰色のトルソに。
さて、あまり夜更かししないうちにおやすみなさい。