布団あります まくらことば活動日記

歌ものロック/ポップスバンド、まくらことばのブログです。

サトー的作曲論

おはようございます。いつものことですが小田急線にキレ気味のサトーです。

だってさぁ、ロマンスカーばっかりリキ入れやがって、なんか普通の乗客は「下にぃ、下に!」って待たされて大名行列みたくなってるじゃん!

 

……えー、さて、昨夜もブンシャカじゃなかったジャンジャカとギターを弾きながら、曲できないかな、できないかな~なんて唸っておりました。

一瞬、「すわ、大瀧詠一みたいじゃん!」とか「1967年あたりのポール・マッカートニーだな、こりゃ」みたいなメロディーが訪れたような気もしたんですが、結局彼らを捕獲することはできず、「ま、そう簡単にはできんやね」と明日また続きをやることにし、おとなしくベッドに向かったのでした。

 

私ね、いっつも思うんですけど、作曲って作業はいわゆる「創造」とはまったく違うのね。

作曲者はよく「自分の頭の中で鳴ってる音を再現した」とか言うわけですが、それとて創造というのとは違うと思う。

メロディーってね、たぶんその辺にあまねく漂っているもので、作曲というのはそれを(多少の音楽的技術を使って)捕まえるような作業で、言ってみれば狩猟採取に近い行為という気がするんです。

これ昔から酔っぱらったときとかによく言ってることなんだけど、偉大な彫刻家って、木とか石とかマテリアルの中に「あらかじめある」ものを取り出してるだけって言うんですよね。

まぁそれは究極であってそこまでかっこよくはないけど、少なくとも「俺様がこのメロディーをこの世に生み出したのだ!」みたいな全能感って、たぶん作曲において何の足しにもならない。

 

メロディーってね、確かにその人の意思で創造することもできるんですよ。

でもそれって実は誰でも何の訓練もなしにできることで、昔「ごっつええ感じ」で板尾創路がめちゃくちゃな歌を即興で歌ってたじゃないですか、あんな感じでできちゃうんですよ(あれは言葉のチョイスが非凡だから芸として成立してたわけですが)。

たぶん全能感に基づいて「創造」したメロディーって、音楽としては「ぐっとくる」感じにはならないと思う。

だってさ、本当にすごい音楽を聴いたときって、「今まで聴いたことがない!」ってよりも「なんで今まで誰もこれをやらなかったんだろう?」って思いません?

私はそんな感じで、「ああ、おれの聴きたかったのはこれだったんだ」みたいな、あらかじめそれを受け容れる回路のようなものが自分の中にあって、やっとそこに響く音が鳴らされた、そんな感動をもたらしてくれるのが、私にとっての「いい音楽」なんです。

初めて聴くのになんか懐かしい、みたいなね。

 

いい作曲者ってね、やっぱり創る人じゃなくて捕まえる人なんですよ。

この世界には「未だ鳴らされていないグッドメロディー」ってのがそこらじゅうに漂ってて、それを取り出してかたちを与えるようなプロセスを作曲というのだと思います。

だから私にとってのいい曲って、例えばメロディーと歌詞を座標軸にとったグラフでハイスコアに位置づけられるようなものではなくて、そんなグラフの枠外にポンっと「あらかじめそうでしかなかったような」ものとして眼前に現れてくるんです。

 

こういう作法で曲を作るためにはどうしたらいいのか?

やっぱりね、虚心坦懐にこの世界と向き合うしかないと思います。

謙虚に、ただ自分のできることを繰り返してじっとその時を待つのよ、大間のマグロ漁師みたいにね。

「俺すげぇだろ? センスいいだろ?」みたいな態度では、たぶんいい曲にはたどりつけない。

これって結構、まくらことば全体の方向性にも関わってる話で、バンドのマニフェスト的な曲「ハッチバック」では、「きっと出会う誰かの心の中に 昔からある景色探して」と歌ってたりします、はい。

 

……なんか今日はエラソーな話しちゃったな。

全然話題は変わるんですが、写真はサドル(弦を置く部品)を交換したテレキャスちゃん。

黒いサドルもイカしてるでしょ?

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