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布団あります まくらことば活動日記

歌ものロック/ポップスバンド、まくらことばのブログです。

ジャックスとはっぴいえんど~はっぴいえんど編

連休初日、素晴らしい天気です。

が、私は、今週後半からやや風邪っぽく、今日も全快まであと一歩という感じなのでおとなしくインドアです。

ということで、はっぴいえんど

 

ジャックスがある種奇跡的な突然変異から生まれたバンドだとしたら、はっぴいえんどはきわめて短期間での急成長ながら、一歩ずつプロセスを積み重ねてオリジナリティを獲得してきたバンドでした。

実ははっぴいえんどのメンバーには、GSを出自とするといえばやや齟齬があるのですが、GS周辺のシーンから音楽キャリアをスタートさせた人もいます。

それは細野晴臣松本隆で、2人はもともとバーンズというバンドをやっていました。

バーンズはアマチュアバンドですから芸能とは無縁、すなわちGSとは言えないのですが、バーンズの次に2人が参加するエイプリル・フールは、音楽史的にもGSに分類して間違いのないザ・フローラルを前身としており、フローラルのメンバーだった小坂忠、ヒロ柳田、菊池英二に前述の2人を加えて結成されたのがエイプリル・フールだったというわけです。

GSには高いミュージシャンシップをもったメンバーを擁するバンドがいくつかあり、その代表格がミッキー吉野などを輩出したゴールデンカップス、我々世代には「なるほど!ザ・ワールド」の回答者としておなじみだった鈴木ヒロミツが在籍したモップスなどで、彼らは当時英米で流行していたクリーム、ドアーズ、ヴァニラファッジ、アイアンバタフライなどのアートロックやサイケデリックロックを強く指向していました(ただGSなのでレコード作品に収められたのはプロの作家の曲が大半でしたが)。

エイプリル・フールの前身であったフローラルもそういったGSのひとつで、1969年の時点では完全にサイケデリックロックのバンドに変貌しており、さらに本格的なグループを目指して結成されたエイプリル・フールは、GS後の「ニューロック」ムーブメントの先陣を切ったバンドといっていいでしょう。

 

エイプリル・フールはアルバム「エイプリル・フール」を1枚残していますが、これを今聴くのは、正直言ってかなりしんどい経験になると思います。

同時代の先鋭的な洋楽を意識したきわめて意欲的で実験的な作品で、その志の高さには涙が出てきそうになるのですが、いかんせん痛い。

まさに「意あって力足らず」という表現があてはまる、非常に残念なレコードです。

ここではアルバム最大の聴きどころであるプログレッシヴ・サイケの大作「母なる大地 パート1」という曲を貼っておきますが、聴けば私の言っていることがおわかりいただけると思います。

演奏力はかなり高いですが、どうにもセンスが追いついていないというか、洋楽からの影響を消化できないままに並べてしまった感じです。

とはいえ、これが1969年。

同時期のGSバンドからしてみれば、まったく別の次元でもがき苦しんでいたのがエイプリル・フールだったと言えるでしょう。

 

アルバム「エイプリル・フール」は、メンバーそれぞれの習作の寄せ集めといった感じのレコードですが、さきほどの曲のようなサイケ・プログレ路線だけでなく、アメリカンロックを指向した曲も何曲か収められています。

前者は柳田が、後者は細野が主導していたのですが、この路線の違いはすでにレコーディングの段階で両者の音楽的対立を引き起こしていました。

逆に言うと細野は、エイプリル・フールを経験することで自身のヴィジョンが明確になったのかもしれません。

細野、松本の2人とヴォーカルの小坂は、アメリカンロックを方向性とした新バンドの結成に向けて動き始めます。

その過程で小坂がミュージカル「ヘアー」のオーディションに合格してしまい、新バンド構想は頓挫しかけるのですが、細野の茶飲み友達である新しい仲間の参加を得て新バンド「ばれんたいん・ぶるう」が始動します。

これが1969年10月終りのこと。

言うまでもなく新しい仲間とは大瀧詠一であり、ばれんたいん・ぶるうは後に「はっぴいえんど」を名乗るようになります。

 

はっぴいえんどはアメリカンロックを指向していたわけですが、具体的に言うと彼らはバッファロー・スプリングフィールドベンチマークしていました。

アメリカンロックの最重要バンドともいえるバッファロー・スプリングフィールドは、ニール・ヤングとスティーブン・スティルスが在籍したことで有名で、王道でありながらきわめて先鋭的な音楽集団として圧倒的な影響力をもっていました。

しかし、1969年の日本で、バッファローを念頭に置いていたのはおそらくこの人たちだけだったでしょう。

90年代にニルヴァーナが出てくるまで日本の洋楽受容は常にイギリス優勢でしたが、69年当時はもう圧倒的なブリティッシュロック傾倒であり、ディランでさえ、当時の日本で影響を受けていた人は一部に限られていました。

アメリカのロックよりもイギリスのロックを日本人が積極的に受け入れてきたのは、そもそもロックのオリジンはアメリカにあり、イギリスもそれを輸入して発展させてきたプロセスを経験しているため日本人には参照しやすかったからだと思われます。

アメリカ発祥のロックミュージックがイギリス優勢に転じたのは、ビートルズを筆頭とするブリティッシュ・インベンションで、ビートルズ現象があれほどまでのインパクトを獲得したのは、逆輸入という快挙を伴っていた側面があったからでしょう。

細野らはっぴいえんどの面々がアメリカンロックを指向したのは、ブリティッシュロックはそもそもアメリカンロックのコピーからイギリス人が作り上げたものであって、今ここで日本のロックを作り上げようとするとき、本当のオリジナルであるアメリカのロックから始めなければならないと考えたからだそうで、彼らはまさに、ゼロから日本のロックを創造する志を抱いてはっぴいえんどを始めたのでした。

 

はっぴいえんどが日本のロックの始祖として位置づけられる最大の要因に、松本隆の日本語詞が挙げられます。

のちに「ロックは日本語でやるべきか、英語でやるべきか」という有名な「日本語ロック論争」を引き起こしたはっぴいえんどのスタンスが正しかったことは歴史が証明していますが、実は当初、メンバーの間でも同様の対峙があったといいます。

細野・大瀧の2人は当初、松本が提案した日本語詞を付けることに反対だったといいますが、おそらく松本の極めて文学的に洗練された詞に触れて、これならいける!と方針転換したのでしょう。

松本の詞は、ボードレールセリーヌといったフランス文学を基礎とし、当時のガロ系サブカルチャーや現代詩のフレーバーを取り入れ、加えて宮沢賢治の強い影響下にあるもので、それまでの日本語歌詞概念を大きく逸脱したものでした。

のちに我が国最高峰の作詞家に上り詰める松本隆がどのようにつくられてきたのか、それを知る手がかりになるのが、彼の自伝的小説「微熱少年」です。

これは1960年代東京のシティボーイ文学としても大変な作品ですので、ぜひ一読をお勧めします。

 

はっぴいえんどについて語り始めると、触れるべき事柄のリストが恐ろしく長いものになってしまいます。

それは当人たちがそのような志のもとにこのバンドを始めたように、ここから始まったことがあまりにも多すぎるからです。

突然変異型のジャックスが、後に続く才能にインスピレーションを与えた存在だとすれば、はっぴいえんどは日本のロックのフォーマットを、ほぼ単独で作りあげたといえるでしょう。

はっぴいえんどが傑作「風街ろまん」をリリースするのが1971年。

あの昭和元禄とも言われた1968年の熱狂からわずか3年で、完全に時代を塗り替えてしまう作品を彼らはモノにしました。

これ以降、日本のロックはまったく新しい言語とロジックで構築されるようになった、と言っても過言ではありません(実際の効果が現れるのはその20年後あたりからですが)。

 

はっぴいえんどバッファローベンチマークしていましたが、今2つのバンドを聴き比べてみると、私ははっぴいえんどの方に軍配が上がると思っています。

演奏力と音像の構築はほぼ互角ですが、言葉を含めたトータルの世界観の構築という点で明らかに「風街ろまん」は、バッファローの「Buffalo Springfield Again」や「Last Time Around」といった名盤を凌駕しています。

というか、1971年に制作されたロックのレコードで、「風街ろまん」を超えるものはほとんど存在しないと言ってでしょう。

 

1968年「ジャックスの世界」と1971年「風街ろまん」、この2枚を当時圧倒的人気を誇ったGSの音楽と聴き比べてみると、いかに2つのバンドが違う次元にいたかがわかります。

そして今も、この国のロックミュージックを振り返るたびに、私たちは2つの屹立した峰を目撃しないことなどあり得ないのです。