魅惑のGSワールド
GS=グループサウンズは、1968年を最高潮とする我が国が最初に経験したバンドブームで、その人気は若年層を中心に社会現象とまで言われる盛り上がりを見せました。
とはいえ、ポピュラー音楽史的にGSは徒花ムーブメントと位置づけられており、現時点で、日本のロックミュージックの正史とは実質的に切り離された扱いを受けています。
音楽ファンにとっても、その大半は懐メロ消費としての懐古需要がわずかにあるだけで、今の若い音楽ファンがGSを掘り下げて得る収穫に、めぼしいものはないでしょう。
しかし、歴史的評価といちリスナーとしての感懐はまったく別物であり、GSが好きという人間にとって、あのムーブメントはほかに類を見ないものでした。
私の世代には、新宿JAM界隈のモッズ~ネオGSムーブメントの薫陶を受けた人がいて、その到達点ともいえるデキシード・ザ・エモンズの音楽に触れた人も少なくないことから、GS再評価の流れの中でこの60年代日本の特異な音楽を愛好する人がちらほらいたりします。
かくいう私も、大好き!とまではいかないもののGSにハマった時期があり、20年前の私のビジュアルは、GSのレコードジャケットに紛れ込んで何の違和感もない髪型とファッションだったりしたものです。
いまGSを聴くことの意義はよくわかりませんが、愛すべきGSを私なりに振り返ってみたいと思います。
GSの下地となったのは、1965年あたりにピークを迎えたエレキブームで、エレキギターを手にバンドを結成した中産階級子弟の大量発生が指摘されます。
ビートルズが来日したのは今からちょうど50年前の1966年ですが、これ以前の日本で最も人気のあった海外アーティストはビートルズではなくベンチャーズでした。
ベンチャーズのテケテケエレキサウンドに衝撃を受け、グヤトーンやテスコのエレキギターを手にした団塊世代少年のいかに多かったことか。
この時代の空気感は、大林宣彦監督の傑作映画「青春デンデケデケデケ」に忠実に再現されています。
ムーブメントとしてのGSは、エレキブームでバンド少年の裾野が広がったところに、芸能的ニーズが合致したことで発生したわけです。
GSが日本のロックの胎動と切り離されて語られる最大要因はこの「芸能」で、GSが音楽ムーブメントとしてでなく芸能ムーブメントとして勃発したことは、押さえておくべきポイントです。
ちなみに英米では、芸能界とは別に音楽シーンがすでに確立されており、ミュージシャンはあくまでミュージシャンでいられたことが、60年代の驚異的なロックミュージックの進化の絶対条件となっていました。
日本ではメジャーシーンの力が相対的に低下するゼロ年代まで、メジャーデビューすること=芸能人になることという構図が多かれ少なかれ存在し、ここに起因して、歌謡曲やアイドル歌謡といった芸能要素を多分に含んだ独自の音楽シーンが形成されてきたといえるでしょう。
芸能的側面からGSを見ていくと、音楽的才能よりルックスやアイドル性重視のオーディションで選ばれたフロントマン+バックバンドという編成がひとつのパターンとして確立されました。
次の曲などはその典型例でしょう。
このやるせない大仰な自己陶酔歌謡は、当然プロの作家の手になる作品で、おそらくレコーディングの大半はスタジオミュージシャンによるものでしょう。
ですがこの曲、ベッタベタの昭和歌謡風Aメロから不意の転調で妙にテンション感のあるBメロ、そしてサビでの絶叫となかなか聴かせる展開があり、私は嫌いではありません。
こういった情念に満ちた少女漫画的世界を地でいくバンドとして最大の成功をおさめたのが「スワンの涙」のヒットで知られるオックスで、コンサートではファンが失神するばかりか演者も失神するという、いかにもな事件が起こっていたそうです。
いっぽう、ブームに乗じるかたちで、それまで一定のキャリアを積んだミュージシャンがGSとして扱われることもありました。
これらのバンドは、米軍基地のハコバンやロカビリーブームのバックバンドとしてすでに十分なキャリアを積んでおり、音楽的能力の高さが特徴です。
とりわけザ・スパイダースはその都会的センスが際立っていて、1960年代初頭のお洒落な不良少年たちの佇まいを感じさせます。
スパイダースにはメンバーの自作自演曲も多くありますが、ここではハマクラ先生のペンになる「夕陽が泣いている」をチョイスしてみました。
これも歌謡曲色が濃いですが、どこか垢ぬけたセンスが横溢していないでしょうか。
ちなみにこの曲で聴くことのできる割れたような音色のエレキギターは、当時爆発的に流行したファズを通した音で、ストーンズの「サティスファクション」やジミ・ヘンドリックスの使用で有名になったファズが、なぜか極東の島国ではこのような音色に変換され多くの曲で使われていました。
ファズの多用は、GSのサウンド面における最大の特徴と言えるでしょう。
スパイダースは、メンバーからその後タレントやプロダクション経営者を輩出したこともあり芸能色が非常に色濃いバンドですが、同時に、かまやつひろしを中心とした高いミュージシャンシップも特筆すべきバンドでした。
その多士済々ぶりは彼らの出自に起因するもので、この人たちは伝説の遊び人グループ「六本木野獣会」のメンバーであり、もともとが、当時の最先端モードをひた走る超高感度人間の集まりだったのです。
彼らがファッションや文化を欧米から直輸入できたのは、その多くが富裕層の子弟だったことが大きいのですが、とにかくこの人たちが日本のユースカルチャー黎明期において果たした役割の大きさは、かなりのものがあります。
六本木野獣会の象徴と言えるのが、ファッションモデル、カーレーサーとして活躍した福沢諭吉の曾孫・福沢幸雄であり、25歳で夭折した彼の生き様は、未だ神秘に包まれています。
芸能的色彩が濃いGSにあって、作家性を発揮したミュージシャンも少なからず存在しました。
私が特に好きなのはこの分類に属する人たちで、昨日twitterにも貼ってしまいましたが、とくかく一番好きなGS・一番好きな曲としてこいつは外せません。
このデビュー曲はギターの鈴木陽一の作詞作曲であり、明らかにプロの作家が手がけた作品とは異なる手触りをもっていて、ここにはロック的衝動の萌芽すら見られます。
イントロの、ワウペダルを効果的に使ったアルペジオのギターフレーズは、率直にいえばキンクス「Never Met a Girl Like You Before」からの拝借ですが、そんなところからも彼らの音楽的素養が見てとれます。
ヤンガーズのオリジナル曲は、ネオGSムーブメントの重鎮・ファントムギフトの十八番でもありました。
ヤンガースはこの他にも自作の佳曲を残しており、ブームの消長とは無関係に、その後の展開まで見てみたかったバンドです。
そして自作自演系で最大の成功を収めたのは、スパイダース、タイガースと並ぶ大物GS、テンプターズでしょう。
テンプターズはフロントに萩原健一(ショーケン)というスターを擁していたことが最大の成功要因ですが、その高い作品性も特筆に値します。
テンプターズのオリジナル曲を手掛けたのは、ギタリストとしても評価の高い松崎由治で、GS期における日本の傑出したソングライターといっても過言ではないと思います。
松崎はあの早川義夫にも影響を与えたとされ、その作品性はもっと評価されるべきです。
一聴してうかがえるのは、ダーティーで黒い初期ローリング・ストーンズからの影響で、R&Bと歌謡曲をうまく融合させる手腕は、今日でも参照すべきものがあると思います。
他にも紹介すべきGSは数多くいるのですが、ブームとしては1970年に入って急速に衰退し、多くのGSバンドは解散を余儀なくされます。
残党の多くはハコバンなど興行方面に活路を見出しましたが、その後なにがしかの音楽的達成を成し遂げたミュージシャンはほぼ皆無といっていいでしょう。
それは当り前のことで、ビートルズは1966年の段階でライブ活動を中止しレコーディング活動に専念するようになっていましたが、すでに時代は、アルバムの作品性・芸術性を追求していくことをミュージシャンの本分としていたのです。
興行以外の選択肢を持ち得なかったのは、そもそもGSが芸能色の濃い出自だったからかもしれません。
また残党の幾人かは、その後ニューロックと呼ばれるムーブメントの担い手になっていきましたが、多くは1968年あたりに英米で流行していたサイケロックやブルースロックの焼き直しにすぎず、その今日的価値はGSにも及ばないといっていいでしょう。
日本に欧米水準の、もしくは欧米にもひけをとらないオリジナリティを持ったロックミュージックが登場するのは、ジャックスとはっぴいえんどの登場を待たなければいけません(時系列的には同時進行の部分もあるんだけどね)。
この2つのバンドについては、いずれ機会を改めてじっくり語りたいと思います。
最後に。
徒花として放置されていたGSを音楽史に位置づけ、その膨大なアーカイブを整理して後世に伝えたのは、ただ一人の在野研究家の仕事によるものです。
偉大なるGS研究家、故・黒澤進氏の業績がなければ、私たちの世代はGSに一切触れることなく音楽生活を送っていたでしょう。
改めて黒澤氏の仕事に、最大限の敬意と感謝の意を表します。