ヒムロックの歌詞について
私はBOØWYが好きです。
これは過去形の話ではなく今もそうで、ここ一発テンションを上げたいときとか、自分の中の田舎ヤンキー気質が目覚めようとするとき、ようつべでBOØWYのライブ映像を鑑賞して体を温めます。
アルバムで言えば「ビートエモーション」と「サイコパス」、この2枚はテープが伸びきるまで聴きました。
私がBOØWYの次に夢中になったバンドはビートルズですが、あの世界最高のバンドを聴くようになっても、BOØWYの名曲たちは色褪せることがありませんでした。
そして今でも、BOØWYの曲を聴くことでしか満たせない感情が自分の中にあって、その部分はほかのどんなバンドをもってしもて埋めることができません。
BOØWYの現象面の特徴として、あれだけの人気と影響力をもっていたにもかかわらず、それほどフォロワーが存在しないことが挙げられると思います。
私見ですがこれは、BOØWY好きで自分も楽器を触る人は数多くいるものの、そのほとんどがコピーバンドの域にとどまり、BOØWYに影響されたオリジナルをやるまでに至らないからではないかと思います。
これは別に彼らの能力が欠如しているとかではなく、BOØWYのコピーをしていればそれで十分に楽しく音楽的満足が得られるということでしょう。
ちなみにBOØWYの色濃い影響下にあるバンドとしてまっ先に名前が挙がるのはGLAYだと思いますが、彼らをフォロワーというのは大変失礼で、BOØWYの影響を完全に消化し、オリジナリティを確立したバンドだと思います。
それだけ真似ができない、もとい、真似しかできないほどBOØWYの音楽性は際立っているのですが、その代表的な要素が、布袋寅泰の圧倒的なギタープレイと、氷室京介のヒムロックと称される独自の世界観ではないでしょうか。
布袋のギタープレイは恐ろしくテクニカルでありながら、そのすべてが楽曲に奉仕しています。
技巧はセンスのないプレイヤーがに身につけてしまうと例外なく自己目的化を始めるものですが、布袋はギタープレイにおいて、手段と目的の履き違えを絶対にしません。
そしてファンキーなフィーリングとハードロック的なダイナミズムを融合させた点において彼は革新的なプレイヤーであり、歪み中心のロックギターにおいて空間系エフェクトを多用するアプローチで分厚いアンサンブルを確立したその独自性は、他の追随を許さないものがあります。
私は日本のギター少年の水準向上に布袋寅泰が貢献した度合は計り知れないものがあると思っていて、多くの入門者が彼のプレイをコピーすることで、他のどんなプロセスを通過するよりも劇的に、技術とセンスを向上させたことを信じて疑いません。
好みやスタイルの違いに関係なくその卓越性が理解されやすい布袋寅泰に比べ、氷室京介の世界は、まず好き嫌いの壁が眼前に立ちはだかります。
歌謡曲とビートパンクを融合させた発明ともいえる独自の歌唱スタイルは、結果的に時代を感じさせる印象をもたらし、しゃくりあげるような歌い方が後のV系勢力に拡大解釈され、信者以外には受け入れがたい排他的なスタイルに発展していきました。
氷室のヴォーカルを苦手と感じる方は、特にサブカル色の強いリスナーに多いと思われます。
そして彼の詞世界がまた、サブカル人へのウケが悪い。
サブカルどころかBOØWYファンでも、「曲はかっこいいけど詞のダサさは異常」といった評価が一定勢力を占めていて、批判的でなくとも、彼の詞を積極的に評価しようという人は多くないようです(作曲者・メロディメーカーとしての卓越性は誰もが認めるところ)。
前置きが長くなりました。
今日私が主張したいのは、ヒムロックの詞世界の正統性についてです。
BOØWY楽曲の詞を検分すると、大半がフィクショナルな物語設定の歌詞であることがわかります。
これは90年代以降のメジャーシーンで主流の自己啓発系メッセージ歌詞とも異なりますし、サブカルシーンの情景描写や現代詩風ことば遊びとも全く異なるストラクチャーです。
物語設定は70年代までの歌謡曲の世界で主流の手法でしたが、その多くは専業作詞家の手になるものであり、シンガーソングライターが音楽シーンの主流になるにつれ次第に廃れていきました。
余談ですがSSWでありながら物語設定が得意なのが谷村新司であり、アリスの名曲「チャンピオン」などはその代表的な作品です。
氷室は自作自演者でありながら職業作詞家的アプローチを採用しており、この点ですでに時代に逆行していたわけです。
さらに氷室は物語設定のみならず、そのワーディングにおいても極めて前時代的なアプローチをとりました。
それは「歌の文句でしかそんな言い回ししないだろ」という語彙・語法の多用であり、BOØWYの活動時期と入れ替わるように勃発したバンドブームにおいては等身大のメッセージ歌詞が主流スタイルだったことも相まって、その前時代性が際立っていました。
そのように下の世代からすれば「古臭い」との誹りを免れ得ない半面、上の世代からは「日本語の乱れ」の嘆きを投じられるという悲劇が氷室の詞世界にはあります。
それは彼が乱発する日本語と英語のちゃんぽんで、雰囲気と語感でぶっ込まれる英語もまた彼の詞の大きな特徴でした。
たとえば「季節が君だけを変える」の「いつもテンダネス/だけどロンリネス/ガラス細工のフィーリング」などはその代表的なフレーズで、こういった語法が先行世代の批判対象となってしまうのは容易に想像がつくと思います。
そして決定的なのが氷室語尾ともいえる独自の表記で、「~したネ」や「~なのサ」といった最終音のカタカナ表記が、恐るべきツッコミビリティを有していることが指摘されます。
現在ネット界隈で「BOØWYの詞はダサい」とされる際の最大根拠がここです。
以上のような事情で、その高い音楽史的評価にもかかわらず、歌詞においていえばBOØWYは全く無視されてきたといっても過言ではありません。
実際、BOØWYの歌詞を参照項目とした後進ミュージシャンは多くなく、前述のGLAYにしても、サウンドはBOØWYながら歌詞はミスチル以降の人生系であり、踏襲の気配は感じられないのです。
私自身はヒムロックの歌詞について、好みの問題でいえばそれほど好きではないものの、ひとつの確固たる世界を確立した大変に完成度の高いものであると思っています。
そして何よりこれは美学の問題であり、ヒムロックの歌詞はある系譜に裏付けられた正統性を有する、ひとつのスタイルの発露であることを指摘したいのです。
ヒムロックの位置する系譜は、現在の音楽界ではほぼ途絶状態にあるものの日本語作詞術として確固たる位置を確保した流れであり、大衆芸術としての高い到達点にアプローチしうるスタイルなのです。
私は、松本隆を頂点とし、歌謡界~サブカルシーンに受け継がれてきた歌詞の系譜を「花鳥風月派」と名付けているのですが、花鳥風月派とは別派のこの流れについて、まだ適当な名称を思いついていません。
ただ名称がないのは不便なので、ここでは仮に、そのフィクショナルな世界観と寒い語法から「フィクションキザ派」としておきます。
フィクションキザ派の系譜に挙げられるのは、松井五郎や康珍化といった、ニューミュージックやアイドル歌謡で活躍した作詞家だと思います。
そしてこの一派の大家と私が思うのは大津あきらであり、松本一起なども本流に位置するのではないでしょうか。
そして、自作自演者としてフィクションキザ派の正統に名乗りを上げたのが誰あろう氷室京介であり、それがバンドマンとしては先行者もなければ後進者もいない、空前絶後の立ち位置であったため、彼の詞は浮いて見えるのです。
つまり氷室の詞の音楽史における位置づけと評価が進まないのは単純にスタイルの問題であり、彼の作品をフィクションキザ派の文脈に置いてみれば、その達成がどれほどのものか見えてくるはずなのです。
ちなみに言うと、横綱土俵入りの雲龍型と不知火型のどっちが優れているかという議論が存在しないように、花鳥風月派とフィクションキザ派のどちらが優れているかは比較不可能で、単にスタイルの違いとしか言いようがありません。
ただ、花鳥風月派とそこから派生した現代詩のような言葉遊び派が、とりわけ音楽性が高いとされる人たちの間で圧倒的優勢を誇る一方で、ほぼ絶滅状態にあるフィクションキザ派の分が悪く見えているだけなのです。
ヒムロックの詞世界をフィクションキザ派の文脈に位置づけてみることで、初めて彼の詞世界の独自性が照射されてくるのではないかと思います。
私は彼の詞に、ひっかかりというか「ん!?」と立ち止まってしまう瞬間があって、そこに彼のオリジナリティを感じるのですが、それは強引な言葉使いです。
たとえば「16」の「いつもNO BODY SO耳をふさいで/何もかもにつばを吐き/ぐれて街をとばしつづけてた」という歌詞、「ぐれて」というのがすごく強引かつストレートで、その屈託のなさに思わず笑いがこぼれます、「ぐれて」て!
それから「LONGER THAN FOREVER」の「悲しがらす様な事を重ねてきた」というのも最高で、「悲しがらす」という言葉を歌のフレーズに使ってしまうそのセンスは、ちょっと理解の範疇を超えたパワーを感じます。
こういった荒削りな語法は専業作詞家に決して見られないものであり、ここに群馬のヤンキーたるヒムロックの真骨頂を見る気がします。
他にもBOØWYの歌詞を探っていくとこうした引っ掛かりがいくつも見つかり、そこに私はヒムロックの独自性を感じてまたBOØWYが好きになるのです。
ところでフィクションキザ派が絶滅状態にある現状は、決して望ましいものではないと思っています。
花鳥風月派は、極めるのは当然至難の道ですが上っ面を真似るのは実はそれほど難しくなく、それっぽく見せるだけなら誰にでもできたりします。
それに対し、より虚構具合が高く独自の美学に基づくフィクションキザ派は最初の一歩を踏み出すのが難しく、習作であってもいきなり完成形が求められる難しさがあります。
現実をベースに光を採り入れて写実していく印象派が花鳥風月派だとすれば、モチーフを解体しリアリティを度外視して再構築するキュビズムがフィクションキザ派と言えるでしょう。
そりゃ、いきなりやれって言われても無理ですよ。
自作自演者でありながら、自分語りの誘惑に背を向け、職業作詞家の牙城であるフィクションキザ派の正統に名乗りを上げた作詞家・氷室京介の功績は、もっと評価されるべきなのです。