布団あります まくらことば活動日記

歌ものロック/ポップスバンド、まくらことばのブログです。

天才芸人・月亭方正

今は亡きナンシー関はかつて、バラエティ番組の変遷を以下の3つの時代のに分類していました。

まずは「芸を見せる時代」。

クレージーキャッツドリフターズが活躍していた時代といえば大昔ですが、文字通り芸に長けた人=芸能人という時代ですね。

その次にやってくるのが「パーソナリティを見せる時代」。

芸をやる人そのものが商品になってくる時代で、ホストvsゲストのトーク番組が増えてくるようになる。「そうか、この人ってこんな人だったのね」と、雲の上の存在だった芸能人が身近に感じられて視聴者にウケるわけです。

そしてさらにその次が「関係性を見せる時代」。

これは前の時代の延長線上にあるもので、「私ってこんな人なんですよぉ」が、「私って誰それと仲いいんですよぉ」になったわけですね。

番組としてはMC+多数のゲストという形式になり、今だったらたとえば「ダウンタウンDX」とか「メレンゲの気持ち」とか、まさにそんな感じではないでしょうか。

 

これ、ナンシー関は確か22,3年前に言ってたのですが、その認識の確かさに改めて驚かされます。

だって今、ナンシーいうところの第3期のなれの果てみたいな状況じゃないですか。

10年くらい前ホリエモン騒動が持ち上がったときに、「放送と通信の融合」みたいなことが言われていましたが、当時は双方向性だとかデータ通信機能を使った番組進行みたいなことが予見されていました。

でも現実にはそっち方向はそれほど盛り上がらなくて、ブログ炎上だとか、SNSで誰と誰が絡んでいるとか、そういったネタがバラエティで取り上げられるという、予想しなかったかたちでの「放送と通信の融合」と相成った風に私は見ているのですが、これはナンシーの予言の下位変換、よりヒドい状況の現出だと思っています。

 

現在のような「超第3期」において芸能人に求められるのは、芸はおろか面白いパーソナリティですらなく、素人がうらやましがるような、パーリーピーポー的交友関係を持っていることではないでしょうか。

これはつまり、昔の言葉でいう「ギョーカイ人」であることが求められるということであり、90年代初頭にダウンタウンが完全に葬り去ったとんねるず的(というか木梨憲武的)世界の別文脈での復活ともとれ、木梨憲武排斥論者でダウンタウン原理主義者の私としては、全く面白くない状況なわけです。

そもそも木梨憲武的世界というのは……おっと、興奮して脱線するところでした、私が今日言いたいのはそんなことじゃないんです。

 

私が言いたいのは、「超第3期」である現在、芸能人としての才能があるにもかかわらず、時代とマッチしないために評価されない人もいる、ということなんです。

それは具体的に誰かといえば月亭方正のことで、私はネタとかではなく真剣に、天才芸人とは方正のことだと思っています。

現にいま、私を息ができないくらいの爆発的な笑いに陥れることができるのは彼だけであり、もっといえば「ガキ」における彼のフューチャーされた企画における才能の炸裂が、私にとってバラエティ番組の最高峰なのです。

 

月亭方正の才能は、間違いなく「芸の時代」すなわち「第1期」においてこそ輝きを放つものです。

彼の代表的な芸として、①ガチのものまねなんだけど結果としてパロディとして鋭利な批評性を獲得するなりきり芸、②つくりもの企画における極限状況を乗り切るための顔芸や歌唱、この2つが上げられると思います。

方正を語る際によく言われるヘタレぶりやリアクションは、彼を前述の第2期あるいは第3期にあてはめた場合に求められる要素なのであって、まれに天然ぶりが炸裂してツボに入ることもありますが、アベレージ的にはあまり面白くありません。

ということは、方正が真に才能を発揮できる舞台は第1期のエートスでつくられる番組だけであり、それはつまりガキの使いということです。

ガキの使いは今日日では貴重な、極めてつくりもの色濃厚なフィクション番組です。

なんとなく売れている人を集めて騒がせ、長時間収録したVTRを適当に編集して仕立てる現在主流の方法論と、練り上げた企画とそれに基づくパッケージを目指すガキの作り方は、根本的に異なっています。

今では珍しい30分という尺も、つくりもの番組としてはこれが限界の長さだからでしょう。

同じくダウンタウンのつくりもの番組だった「ごっつええ感じ」は、前半は「TEAM FIGHT」のような第3期的なコンテンツであり、コア部分はやはり30分程度でした。

 

月亭方正の芸の特徴を誰よりも深く理解し、輝く場を与え続けてきたのは、誰あろう松本人志です。

松本はかつて「山崎は面白くないところが面白い」「山崎を面白いと言ってはダメ」との至言を残していますが、これは方正の芸の本質を完璧に射抜いています。

彼のモノマネ(というか憑依芸)は、クオリティでいえば本職のモノマネ芸人のそれには遠く及びませんし、顔芸や天然芸にしても、もっと芸達者な人やそれを前面に掲げている人はいます。

方正が輝くのはナンシー関の分類における第1期であることに間違いはないのですが、60年代的なそれではなく、ダウンタウン以降のメタ的な批評性を通過した「超第1期」において、彼は他の追随を許さない笑いを引き起こします。

「演じる人間が同時にそれを見つめる人間を同居させながら演じる」というメタ的設定において、それを織り込まずに天衣無縫にふるまう、そういった限られたシチュエーションにおいてのみ、方正は面白い。

限定されてはいるけれどその面白さは、絶対値でいえば、現存するありとあらゆるテレビの笑いをはるかに超えた高みに達すると思います、少なくとも私にとっては。

 

いま方正が輝くことのできるのは、日本で唯一「超第1期」の番組であるガキの使いだけであり、その番組で彼がレギュラーを務めているというのは、本人にとってもファンにとっても幸福としか言いようがありません。

言うまでもなく、この状況を作り出しているのは松本人志であり、自分には決して持ち得ない笑いの才能をもった方正へのリスペクトがその真相ではないかと思っています。

 

笑いそのものを語るのはそれこそ好みの問題だし、何より無粋だから状況論だけに終始しましたが、私がそんな方正の笑いの最高峰だと思うのが、恒例の「さよなら山崎邦正」企画の第9回(2009年)で、このときの顔芸、話芸、憑依芸は、いずれも方正の真骨頂というべき爆発力を誇っています。

限られた設定下でしか輝けない自分の才能を熟知してか、方正はテレビはほぼガキのみに軸足を置き、もう片方はガキとは違う意味でまた超第1期的な落語の世界に置くというキャリアを選択しました。

おそろしくクレバーな選択だと思います。

あの中途半端なポジショニングのままベテランの域に達した彼の立ち位置は余人をもって代えがたいものですが、それは必然的なことだと私は思っています。