布団あります まくらことば活動日記

歌ものロック/ポップスバンド、まくらことばのブログです。

地の塩、世の光

新約聖書に収められた「マタイによる福音書」には、「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」というイエスの言葉がある。

塩には味を付け、腐敗を防ぎ、身を清める効能がある。塩なしに我々は生きていくことはできない。

光によって闇は照らされ、私たちは導かれる。また暖かさを与えられもする。塩と同様、光なしに我々は安らかに生きることはできない。

イエスは我々に、塩や光のようになれ、と言っているのではない。あなたがたはすでに、生まれながらにして地の塩であり、世の光である。だから、そのかけがえのない存在に見合うような生き方をせよ――そんな教えではないかと、キリスト教徒でもなんでもない僕は考えている。

 

塩の味付けは、今も昔も変わらずシンプルだ。そして紀元直後とくらべれば驚くほど味覚が増えた今日において、そのシンプルさゆえに塩味はいよいよ目立たない。

それでも僕たちが塩の多寡、否、塩の有無に驚くほど敏感なのは、塩という存在が致命的に重要であることを本能的に知っているからだろう。塩は単なる調味料であるにとどまらず、我々の生命維持に関わる物質なのだ。

そして「地の塩のようなもの」もまた、我々の生に欠くべからざるものだと思う。

あまりに簡素で原初的であるため、誰もその存在に気付かない。あまりにさりげなく、そこにあって当然とも思えるため、誰もその効能に感謝しない。

しかし我々の世界――時に残酷で度し難い憎悪に振れてしまうこの世界が、かろうじて秩序を保っていられるのは、「地の塩のようなもの」を、名も知られず眼中にも入らない誰かがこの場所にもたらしているからに違いない。

 

花見シーズンが近いが、賑わう春先の公園の暗がりに誰かが空き缶を置いたとして、その空き缶が片付けられることなく放置されたなら、近辺が空き缶の山になってしまうのにそう時間はかからない。

しかし誰かが、自分が捨てたわけではないその空き缶を拾い、正しくゴミ箱に投じたとしたなら、そこに無秩序なゴミの山が築かれることはない。

そのようにしてこの世界は、名もなき誰かの、誰にも評価されない善意によって未然に危機が回避され、僕たちは今ここで暮らすことができている。


我々はどこにでも遍在し、驚くほど目立たない地の塩であるにすぎないので、ほとんどの人は一生のうちに英雄的な快挙を達成することはない。だが、地の塩であるがゆえに、知らず知らずのうちに決定的な仕事に参与することもできる。

自分のできないことを数え上げる暇があれば、できる範囲で、自分がこの世界に対しさりげなく為し得る何かを実践すること。そちらのほうが、地の塩としての存在にふさわしい生き方なのだろう。

 

井上コトリさんの新作『まちのひろばのどうぶつたち』を読んで僕がまず思い浮かべたのは、「地の塩、世の光」というマタイ福音書の言葉だった。

作者自身が「今まで自分が書いた中で、一番優しいお話」と評するその物語には、「地の塩」として生きる動物たちと、それを照らす「世の光」が見事に描かれている。

『まちのひろばの~』に描かれる動物たちは、透明で誰にも見えない存在として登場する。

コトリさんはとても、「匂い」に敏感な人だ。彼女が街を歩けば、目には見えずとも五感に訴える何かが感じられるのだと思う。それを作家の感受性とか想像力といった言葉で説明してしまうのはあまりにも安易だけど、コトリさんが「匂い」を手掛かりに物語を語り始め、確かな存在を描きだすことに成功した要因は、彼女の鋭敏さという資質抜きには語れない。

透明の動物たちは、(透明であるがゆえに)誰に愛されるわけでもないが、街を日々闊歩し、誰に褒められるわけでもないが、小さな善を積み重ねる。

このモチーフとして作者自身より子供時代のエピソードが明かされたことがあったが、軽やかに、時にはおせっかいなまでに街に善きものを積み増ししていく動物たちは、悲壮な覚悟を任ずる正義の存在などでは決してない。

見えないことにさしたる問題も感じていないけれども、自分の為したことによって街が少しでも明るく、楽しくなり、凍える誰かがひと時の安らぎを得ることができればそれでいい。

動物たちが存在の証として街にもたらしたものこそ、「地の塩」と呼ぶにふさわしい。

 

そして動物たちはある日、「地の塩」を照らし出す「世の光」に出会う。

「世の光」について具体的詳細を述べるのは控えるが、それは特別でも超越的な存在でもない。

コトリさんが街の匂いに敏感なくらいに独特の能力の持ち主なのかもしれないが、それでも「世の光」は、普通に街にいる誰かにすぎない。

ここでイエスの言葉をもう一度思い出してほしい。誰が「地の塩」であり、「世の光」であるのかを。

 

何気ないやさしさと、いくばくかの他者を思う気持ち、それは誰でももつことのできるものだ。

コトリさんに『まちのひろばのどうぶつたち』を書かせたのも、そういった気持ちなのだと思う。特別なものは何もない。

でも、それを物語としてかたちにし、年端のいかない子供から年功を積んだ大人の心の中にまで染み入らせることができるのは、やっぱり特別なことだと思う。

そして大切なのは、その特別なことから僕たち一人ひとりが何を感じ、何を受け取るか、なのだ。

 

我々が「地の塩」「世の光」であらんとするとき、この世界は輝きと色彩で満ちたものになるだろう。

僕たちは、自分で思ってもみないやさしさと強さをもって生まれてきたのかもしれない。

願わくば、一人でも多くの人が『まちのひろばのどうぶつたち』に触れることで、そのありふれた力に気付かんことを。