布団あります まくらことば活動日記

歌ものロック/ポップスバンド、まくらことばのブログです。

ポップカルチャー

昨夜、「道徳」が科目に"格上げ"されるというニュースを目にした。

学習指導要領の内容そのものはそれほど変わり映えがするようには思えなかったが、昨今のいじめ問題やグローバル化などを踏まえた指導方針が打ち出されている。

「道徳」という言葉を聞いて、私はかつて自分が受けた道徳の授業を思い出した。

知っている人はよく知っている(すなわちどこにでもある類の)話だが、私の生まれ育った広島県、それも東部地域の道徳教育は、特定の思想を背景としたある明確な目的を帯びた内容であり、そこにおいて教師は、特定団体の影響下にある運動員のような位置づけにあった。

その教育内容は、掲げる大義そのものは近代市民革命以降の民主主義社会において至極まっとうなものに思えたが、方法論については、子供の目にも奇異に映るものであった。

そこにあったのは問題意識の共有、共感の醸成といった一般的な道徳教育の到達点を大きく超えた馴致と教化であり、情理を尽くした言葉ではなく糾弾と否定の怒号であった。

 

一般的なクソガキにすぎなかった私たちは、そういったファナティックできちがいじみた教育に接し、当然ながら何の薫陶も受けることがなかった。

それどころか、危険だが極上のネタを仕入れたと浮き足立ち、大人のいないところで"用語"を連発しては、少年の間のヒエラルキーを彩る具材とした。

運悪くそうした場面を発見された仲間は、前例のない罰を受けることになった。

すべての授業はストップし、当事者は校長室に監禁されて徹底的な転向教育の対象となり、その他の生徒は体育館に集められて痛恨の反省を求められた。

馬鹿なガキだった私たちは、ここに至ってようやく事態の深刻さに気付いた。

「糾弾」や「吊し上げ」が具体的にどのような行為なのか、何を犯せばその対象に認定されるのか、いやというほどの実感をもって知ることとなったのである。

 

私は今、かつて自分が受けた教育がそうであったように、ある種の政治的立場(あの教師たちとは真逆の)に依って、あの道徳教育を"糾弾"したいわけではない。

はっきり言ってあの教育が私にもたらした思想的影響は皆無であり、政治的に言えばゼロ査定されるべき事柄だからだ。

ただ、あの教育は私に、社会生活を送るうえで有用な知恵を、とりわけ反面教師的な仕方でもたらしてくれたように思う。

まず、世の中には「本当に」タブーが存在する。

私たちはよく、大人たちに「それは口が裂けても言うな」と真顔の警告を受けたものだが、そのおかげか、"言論の自由"をすなわち「何を言ってもいい」ととらえるほどの無邪気さと、私は常に無縁であった。

だから昨今のバカッター問題や、SNSに散見されるやたらとソーシャルで意識の高い物言いに対し、純粋に「馬鹿だなぁ」と感じる。

そして、「正義」の前で人は、どこまでも度し難く残酷で反知性的な存在に成り下がってしまうのだ、ということ。

私たちは"組織"の言葉を自分の言葉のように語る大人をうんざりするほど見てきたが、彼らが物理的にも精神的にも、いかに簡単に人間を傷つけ、損なうのか、そして正義の名のもとに反省という習慣を持ち合わせていない存在であるかを知った。

正義を掲げる人間は信用ならない――私はほとんど条件反射的に「正義の人」を避けるようになった。

 

そしてこれが一番重要なことなのだが、自分がどれほど正義に魅了されやすい存在であるか、ということ。

私たちを取り巻く世界は、おしなべて不安定で"座りの悪い"状態に保たれているが、怠惰な私たちはいつも、隙を見つけては座るべき椅子を探し求める。

そしてゆるぎない正義のうちに自分を位置付けたとき、私の言葉はどこか攻撃的で、権利意識に包まれ、他者に迫るような圧を宿す。

これは具体例を引こう。

何年か前、前職在籍中に私が作成したある企画書には「待ったなし」「これが今のグローバルスタンダード」といった脅迫の文言がつづられていた。

私は自分の生業に対し、「高度の清廉性」を要求するほどのピュアネスは持ち合わせていないが、さすがにこれは、あの「魂を売った」というストックフレーズを自分に向けざるを得ないと思った。

そして私は、自分が仕事に対して主体性を確保し続けるためには、不要不急の、この世に別になくてもいいものを扱うような分野で生きていくべきではないかと思った。

幸運にして私は、30代半ばにしてようやくそういった場に身を置くことができたように思うが、かといって慢心は許されない。

自分がどれほど怠惰で、それゆえにどれほど正義に引き寄せられる人間であるか、それくらいは知っているからだ。

 

音楽をはじめとして私があらゆるポップカルチャーを愛するのは、それが正義とは無縁の軽やかさ、いい加減さを宿しているからだ。

ポップカルチャーそのものに、私は何の意味も意義も見出さない。

なぜならナンセンスであることがポップカルチャーの命題であり、それを失った瞬間にポップカルチャーポップカルチャーでなくなるからだ。

しかし、まるで無意味なはずのポップカルチャーが社会に(できうるなら有償のものとして)流通するとき、そこにはある種の「生きやすさ」が存在する。

ポップカルチャーが成立している間は、少なくとも世の中は正義とは無縁でいられそうな気がする。

「意味がないことの意味」――これはレトリックが過ぎるだろうか。

 

ただし、ポップカルチャーとセットになった「生きやすさ」がいつの間にか「正義」に転化し、私たちの足元を絡めとるような事態、これは歴史上枚挙にいとまがない。

まったく難しい問題である。

 

ポップカルチャーを愛するものとして、私たちは「正義」とどう向き合っていくべきなのか。

私は、自らの怠惰を登場させないための「知性」を身につけることだと思う。

では、「知性」とはなにか。

私たちは知性を計量するとき、その人の「真剣さ」や「情報量」や「現場経験」などというものを勘定には入れない。そうではなくて、その人が自分の知っていることをどれぐらい疑っているか、自分が見たものをどれくらい信じていないか、自分の善意に紛れ込んでいる欲望をどれくらい意識化できるか、を基準にして判断する。

内田樹『ためらいの倫理学』より)

 絶え間なく自分を疑い、吟味し続けることを通じて、私はこれからもポップカルチャーを愛していこうと思う。