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布団あります まくらことば活動日記

歌ものロック/ポップスバンド、まくらことばのブログです。

「ノルウェイの森」の話

こんにちは、サトー@まくらことばです。

最近急に「ノルウェイの森」の永沢さんのことが思い出され、彼のキレッキレなプリンシプルを読み返しては「やっぱり永沢さんすげぇな」と感心していたのですが、結果的に永沢部分のみならず全体を読み返すことになりました。

ノルウェイの森」を読むのはこれで通算4,5回目かと思いますが、素晴らしい小説は何度読んでも面白いし、その時々によってちがった風に受け取ることができて、今回も新しい発見というか今の自分ならではの感じ方があったような気がします。

そこで今日は、もうすぐ38歳*1のサトーが読んだ「ノルウェイの森」感想文です。

 

ノルウェイの森」にはいずれも個性豊かな登場人物がおり、彼らの魅力がそのまま物語の魅力に直結しているわけですが、話を整理するためにちょっと図式的にとらえてみることにします。

えー、何がまともかという議論は置いておくとして、「まとも」という座標軸を設定した場合、図の右側、きわめてまとも象限にプロットされるのはやっぱり緑とレイコさんだろうと。

そんで図の最も左側、一番まともじゃないエリアにプロットされるべきは永沢さんなんだろうと思います。

主人公ワタナベはそれらの人たちのちょうど中間に位置し、時にまとも、時にまともじゃないということで、要するにきわめて「普通の人」なんじゃないかと思ったわけです。

ワタナベがきわめて普通であるということは自分でも作中で言っている通りですが、もちろん緑が喜ぶように彼の話し方や表現方法は極めて個性的ではあるものの、人としてのモラルという点では座標のど真ん中に位置する人ではないかと。

というのもノルウェイの森」は、やっぱりワタナベくんの成長物語だと思うんですね。

なのであの作品で描かれるワタナベというのは非常に不安定でまだ固定していない存在、いろいろな人と交わっていくなかで彼なりのモラルを確立している最中だと思います。

そしてもう一人の重要人物直子ですが、やっぱり直子は、社会的存在としてはまともではないと思う。

彼女は自覚しているように、17歳までをキズキというあらゆることが一体化したパートナーと過ごしてきたことにより、成長過程にある人間が経験すべき通過儀礼とか払うべき代償を免除されてきた、そしてそれはキズキ亡き後自分一人に降りかかってくる、そういった宿命を背負って生きている。

そしてそれを受け容れるには、彼女の感受性は鋭敏すぎるし精神は繊細すぎる、ということで彼女は現実適応よりも、そういったことからの永遠の免除である死を選びキズキの側に行ったのだと思います。

直子は作中、自分のことについて「わからない」を連発しますが、実は彼女ほど物事がわかっている人もいなくて、あの永沢さんよりもよっぽど透徹した目を持っていたではないか、そのことが彼女を現実適応させないまま最悪の悲劇に導いたのではないかと思うのです。

直子にとってワタナベは唯一の現実との紐帯であり(彼女は「リンク」と言っていた)、ワタナベは現実サイドに直子を引っ張ろうとするわけですが、そのワタナベ自身が直子および彼女のいる世界にたまらなく魅了されているという構図。

もしあの現実主義の権化でありハードボイルドの極北にある永沢さんが直子を現実に引っ張り込む役目だったら、その後どうなるかはさておき、とりあえず直子をあの世界から外に出すことはできていたかもしれないですね、力学的には。

でもやっぱり永沢さんは他人のために自分を賭して何かやることのない人なので、それはあり得ない仮定なんでしょう。

ということで座標の話に戻ると、ワタナベと直子というのは全く同じ場所にプロットされていて、その場所は「現実と非現実」「生と死」が混在したような場所であると。

そしてワタナベと直子は最終的にまったく違う選択をするわけですが、ここにあったのは紙一重の差にすぎないのではないかと思います。

 

死を見つめ続けてきたという点では、実は直子と同じかそれよりもタフな状況に直面してきたのが緑です。

緑の生命力というか、生き物としての強さは本当に魅力的で今回も私は彼女に魅了されたのですが、やっぱり登場人物の中で最強の存在は緑でしょう。

緑には永沢さん並の現実認識能力があり、レイコさんにも通じる適応能力もあり、それでいて直子のような感受性もある。

彼女の強さは育ってきた環境に負うところが大きいと思うのですが、彼女が根っからの都会人であるということも大きいのではないかと思います。

はじめてワタナベが緑の家に遊びに行くシーン、緑の家の近所で火事が発生します。

その時の緑の落ち着きっぷりというか、高みの見物ぶりはまさに江戸っ子の作法を思わせるし、彼女がワタナベとの関係で見せる、激情型の性格でありながらしっかりと状況を見据え自分をコントロールしている姿は、他者との関係性=社会の中で生きる術をあらかじめ身に着けていることがうかがえるようです。

緑はどこか死の匂いを漂わせていた直子とは正反対のキャラクターですが、幾人もの肉親を見送りながら彼女が死者に引っ張られることなく、いつも「生」に向かい続けるのは、彼女がある種の無常観をインストールしているからであり、「永遠」などどこにもない、だから今を生きるのだという強い意志が感じられます。

 

緑と同じくまとも象限にあるレイコさんですが、今回改めて気づいたこととして、レイコさんの来歴の特別さがあります。

レイコさんは幼いころからピアノの英才教育を受け、ピアノにすべてを捧げて生きてきました。

そしてその生き方が破綻したときに彼女の人生に狂いが生じるわけですが、以前読んだときはこの辺の事情に「なるほど」と思うばかりでした。

まぁ非常に類型的というか、話としてはわかりやすいなと。

でも待ってください、時代設定と年齢から計算すると、レイコさんの生年は1931年前後のはずです。

つまり彼女は戦中から戦後の混乱期にかけてピアノ以外のことは何もしなくていいような環境で育てられたわけで、時代背景を考えるとこれは本当に特殊な事例だということになります。

つまりレイコさんはその当時の日本でほんの数人にしか適用されない生き方に選ばれた人物だったわけで、それが破綻するということがどれくらいのことなのか、今の私たちの感覚ではちょっと想像もつかないことではないでしょうか。

そう考えると、国家レベルの期待を背負ってそれがかなわないとなったとき、「頭がボンッ」程度で済ませることができた彼女は、繊細どころかそれこそ永沢さん並にタフな精神の持ち主ということになります。

ということで今回、レイコさんは「まともな永沢さん」としてワタナベを導く人だったんだ、そんなことに気づいた次第です。

 

最後に永沢さんですが、彼がいかに「人としてどうなの」的存在であるとしても、やっぱり魅力を感じてしまいます。

彼のクリアカットな名言の一つに「人生にはそんなもの必要ないんだ。必要なものは理想ではなく行動規範だ」というのがありますが、この台詞は図らずも、「ノルウェイの森」の登場人物全体を指しているように思います。

この物語の時代背景は、いわゆる「政治の季節」でした。

ワタナベはそんな時代の熱に一切関心をもたず、ひたすら個人的事情の中に閉じこもって生きる若者のようにもとらえられるのですが、彼のようなパーソナリティをもってして「社会性の欠如」とか「しらけ世代の先鞭」とか批判するのはまったくもって的はずれ、そういう感覚こそこの小説によって葬り去られるべきものだと思います。

ノルウェイの森」はいわゆる“大文字の正義”とか“時代を貫く鉄の法則”とかに自分の人生を預けて思考停止してしまうのとは真逆の、自分の目で見て自分の耳で聞いたことを基本に他者と交わりながらこの世界と折り合っていく人たちの物語であり、本当の意味での主体的な生き方とはどういうことかを模索する小説です。

登場人物がどれも魅力的なのは、彼らがそれぞれの行動規範みたいなものを探りながら、恐怖とか絶望と背中合わせでありながらも幸せを求めて生きているからであり、その姿が時代を越えて読者の心をつかむのだろうと思います。

永沢さんはその意味で、この物語全体の案内人のような存在であり、彼もやはり、恐怖を抱きながら人生を謳歌している一人の青年にすぎないと思います。

なんですが彼の、自分の弱さをおくびにも出さない「行動規範」は人生のある時期には決定的に必要なものであり、永沢ファンを連綿と生み出しているのも納得するのでありました。

 

ところでワタナベは、今の基準で言えばストーカー認定されかねないくらい、女の子に相当な頻度で手紙を書いたり電話を掛けたりします。

ノルウェイの森」ではワタナベと直子、ワタナベと緑の間に音信不通の期間がしばしばあって、その時間が彼らの関係性を成熟させもするのですが、気軽に連絡が取れないというのは、小説にとってまったく理想的な設定だと思いました。

これは「ノルウェイの森」に限らず、「この作品ってケータイとかメールがあったら成立しないよなぁ」と思う小説とか映画がままあって、表現者にとって今って結構不幸な時代なんじゃないかとも思う次第です。

ま、ケータイとかSNS時代なりのコミュニケーションとかもどかしさってのもあると思うのですが、直接に人と会う、あるいは手紙を書くという行為の大切さを再認識したのでした。

*1:そういえば物語のイントロ、ハンブルク空港に着陸するシーンの「僕」=ワタナベは37歳という設定でした。読み返すのにぴったりなタイミング。