「ジャージーボーイズ」観てきました
おはようございます、サトー@まくらことばです。
今朝は結構な涼しさですね、秋の深まり、いい感じです。
実はここ数日、私は唐突な短歌ブームに見舞われております。
仕事でちょっと短歌に接する機会があったのですが、有名な歌人とかじゃなく一般の方でも歌をたしなみ、歌集にされている方などが結構いらっしゃるんですね。
そういう歌集は大体時系列で並べられていて、その人の日記のように歩んできた人生を如実に表すものとなっています。
しかも短歌という形式にのっとることによって、ちょっと客観視というか俯瞰的に自分とか状況とか情景を切り取っているものが多く、日々の何気ないことから人生の転機まで、瞬間を31文字に刻む、それを歌集としてまとめると、その人の生きた足跡とか、大げさにいえば世界観みたいなものが見えてくるようで、それは市井の人であってもなかなかに読む者の胸を打つものがあるのです。
最近はSNSとかブログで日記およびそれに準じるものを書いている人は多いし、そういったものが歌を詠むことのかわりになっているとも思うのですが、だったらネットと歌を組み合わせればいいじゃんと、Twitterの個人アカにて歌を詠んでみることにしました。
やってみると思った以上に面白く、ちょっとこりゃいい遊びみつけたなという気分に。
いや、完成度とか出来の良し悪しとかどうでもいいのよ、思ったこと・感じたことをそのまま31文字で表してみればいいんです、気楽に。
俳句は季語が必要だし、川柳だったら風刺とかウイットが必要なのでけっこうハードル高めですが、短歌はそういうしばりもないですからね、ぜひみなさんも短歌はじめてみてはいかがでしょうか。
完成度誰が気にするそんなもん思ったままに詠めばええのよ
さて、今日の本題はこれからです。
昨日ですか、クリント・イーストウッド巨匠の最新作、「ジャージーボーイズ」をレイトショーで観てきました。
これは実在のグループ、フォーシーズンズの歴史を題材にしたもので、同名のミュージカルを映画化したもの。
フォーシーズンズはジャンルでいえばポップス~ロック、スタイルはバンドですがいわゆるロックバンド然としたものというより、ヴォーカルグループといった感じでしょうか。
題名にあるようにニュージャージー出身の若者4人のサクセスストーリーとなっています。
「ジャージーボーイズ」は、本当にバンド映画の王道というか、はっきり言ってベタベタの映画です。
地元の不良というかロクデナシどもがグループを結成し、ハチャメチャな日々を送りながら着実にスターダムを駆け上がっていく。
そして成功にはつきものの金と女、そして仲間割れ。
深い挫折もありながら、それでも音楽を続け、やがてかつての仲間が再び集うラストシーン――本当にもう、ストーリーだけを書き出せば、ほかの何本もの映画にも適用できそうな作品です。
私はこれ、イーストウッド巨匠があえてこのベタネタに挑戦し、「おれがやったらベタもこうなるんだ」という、“お題”への見事な回答という大喜利なのではないかと思います、ピカソが赤富士の構図で描いてみた、みたいな。
そしてこの試みに、私は「さすが巨匠!」と唸らざるを得ませんでした。
まず細部まで神経の行き届いた時代考証をはじめとした作り込みが素晴らしい。
音楽映画やスポーツ映画は「俳優がその世界のプロを演じる」ということで、実演シーンのリアリティが決定的に出来を左右するのですが、「ジャージーボーイズ」については完璧といってもいいかと思います。
演奏シーンはプロのミュージシャンのそれといってもまったく違和感はなく、実際主演のフランキー・ヴァリ役のジョン・ロイド・ヤングはアテレコではなく本当に歌っていたと私には見えました(アテレコだったらそれはそれですごい)。
また時代ごとにメンバーが使っている楽器のチョイスも完璧で、「ああ、この時代だったらこの楽器だよな」という納得の時代考証。
たとえば60年代にはスラブボードの黒いストラトを弾いているのですが、70年代のシーンでバンドのギタリストはラージヘッドでメイプルネックのストラトを弾いてたりする、そんな具合です。
そして基本的にはベタベタの分かりやすいストーリーながら、登場人物やシチュエーションについて、いちいち説明が入らないのがまたいい。
実際ショービジネスの世界って、何者かさっぱりわけのわからん人物がいたり、誰が主催なのかよくわからない現場とかがあったりすると思うんです、とくに70年代までは。
とにかく熱気に包まれた時間が過ぎていくフォーシーズンズの日々を描くうえで、多少の「?」を放置してめまぐるしさを表現したのは大成功ではないでしょうか。
そしてグループがニュージャージー出身という設定がまたよくて。
ニュージャージーはニューヨークの郊外、日本で言えば埼玉のような土地ですが、どんなに成功しても地元の匂いが漂うメンバーの在り方がたまらなく“輩っぽさ”を醸していたのが印象的でした。
ニュージャージー出身のメンバーがまとう「埼玉感」がこの映画の決定的なフレーバーであることは、タイトルからしても明らかでしょう。
ところで私は、恥ずかしいことにフォーシーズンズを知りませんでした。
劇中の挿入歌はいくつも聴いたことのある曲があったのですが、フォーシーズンズ自体はこの映画で初めて知ったのです。
これは単に私の無知ということがまずあるのですが、極東の音楽ファンの歴史観がいかに「ビートルズ以降」で形成されているか、これを示しているのではないかと思います。
実際、たとえば1960年代後半のアメリカ音楽シーンといえば、ジミ・ヘンドリックスみたいなサイケでハードなロックが主流だったでしょ?と我々は短絡的に思いがちですが、そのころだってエルヴィスは活躍してたし、フォーシーズンズのようなヴォーカル・グループがまだまだアメリカには存在していたんだろうなと。
だからビートルズ以降のロックシーンとかムーブメントって、全体でみると一部、アート志向の人たちの流れであって、アメリカ国内では必ずしもそれが主流ではなく、50年代から連綿と続くショービジネスの世界があったということです。
だってフォーシーズンズは、「サージェント・ペパーズ」以降の作品主義なんかとはまるで無縁、アーティスティックなアルバムを作り込むみたいなシーンはまるで出てこない。
とにかくドサ廻りをしながらヒット曲を狙う、このサイクルを50年代から70年代までずっと繰り返しているんですね。
そう考えると、ビーチボーイズのブライアン・ウイルソンがおかしくなっちゃったというのもよく理解できて、要するにメンバーも周囲の人間も変わることなく50年代以降のアメリカン・ショービズな世界にいたのに、ブライアン一人だけビートルズ以降のアートな世界に行ってしまい引き裂かれていたのではないか、そんなことを思うわけです。
とにかく、日本のロックファンがあまり知らないアメリカ音楽の世界を知るという意味でも、「ジャージーボーイズ」は非常に面白い作品なのではないかと思います。
それにしても、クリント・イーストウッドのここ10年ほどの神がかりモードはいったいなんでしょうか。
「ミリオンダラー・ベイビー」、「グラントリノ」、「インビクタス」と、アートとしてもエンタメとしても素晴らしすぎる作品の連発は、アメリカ映画史上で最も偉大な人物という域に入っている気がします。
巨匠は現在84歳、これからも一本でも多くの作品を劇場で鑑賞したいと思います。
「ジャージーボーイズ」の最後、フォーシーズンズは90年代に入りロックの殿堂入りを果たすわけですが、栄華とどん底を味わい尽くしたメンバーが最後に自分たちのよりどころとしたのは、その昔地元のクラブの店先で磨き上げた4人だけのハーモニーでした。
このシーンに巨匠が自らの映画人生を重ね合わせているのだとしたら、ちょっとかっこよすぎですね。
去るものも追うものもなき場所にいてただ持ちたるははじまりの瞬間