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布団あります まくらことば活動日記

歌ものロック/ポップスバンド、まくらことばのブログです。

リスク分散のすすめ

どうもどうも、まくらことばのサトーです。

 

……ろくでもない夢を見て目が覚める、例のパターンで♪あーめのなっかーおおごえでさけーぶー的な感じになっております、あーあ月曜だっていうのに。

 

えーっとですね、よく「俺から○○を取ったら何が残るんだ」的な台詞がドラマとかで使われるし、現実世界でも使われている(のかな?)じゃないですか。

往々にして○○には、それこそ音楽とか芝居、あるいは野球などのスポーツとか、一般に職業とか生業にするにしてはリスクの高い物件があてはまる場合が多いですよね、「俺から公務員取ったら~」とかはあんまり聞かない気がする。

すなわちこの台詞、一般に続けていくには困難が多く挫折しがちな物事にあたる際、自分を鼓舞するまたは相手を励ます文脈で使われる言い回しなんでしょうね。

そんでそこにはちょっとした覚悟とか悲壮感、あるいは才能とか適性があることの示唆なんかが含まれているから、この言い回しはちょっとかっこいいというか、決め台詞として機能するわけで。

私もどこかでこの台詞に対する憧れというか、自他ともに納得する○○を見つけて言ってみたいもんだなとちょっと思ったりします。

 

なんだけど、じゃあたとえば思い切って「音楽」を当てはめてみる、と。

「サトーから音楽を取って何が残るんだ!」

……いや、いろいろ残るよね、プロ野球観に行くのもいいし、最近はご無沙汰になってるけど釣りをまたがっつりやるのもいいし、クルマのことだけ考えて一週間過ごせって言われれば嬉々としてそうするし、最近は秋冬物の洋服も気になるし。

というか音楽にしても、仮に「やる」ほうをゼロにしても「聴く」のはいくらでもあるわけで、実際今日も「うわ、世の中にはおれの知らない素晴らしい音楽がいっぱいあるなぁ」と実感したばかりで。

そう考えると音楽に限らず、自分は「○○を取ったら何も残らない」の○○には何一つあてはまらないなぁ、と思ったりします。

そのことに対し、なんというか「ああ凡人だなぁ」というか、やっぱりそう言い切れる何かがある人ってのはかっこいいなぁという憧れがどこかにあるのでがっかり感もなくはないのですが、トータルでは「ま、よかったなぁ、おれセーフ」的な安心感を抱いている自分がいます。

 

内田樹がよく言っていることなんですが、自立した人間というのはできるだけ多くの人間によって支えられている人のことを言うのであって、自分一人で立っている人という一般的なとらえ方とはまるで逆なんだと。

例えば生まれたばかりの赤ん坊というのは「自立していない」存在といって間違いないけれど、それは赤ん坊のすべてが母親一人によってのみ支えられているから「自立していない」というんですね。

母親のみによって支えられているということは、もし母親がいなくなってしまったらいともたやすく存在の危機にさらされるわけで、彼を支える者の少なさが彼の存在の脆弱さなのだと。

だから人が成長する、大人になるということは、始めは誰しも母親一人しかいない自分を支えてくれる存在を増やしていくことであって、その結果自分を支える人が多くなればなるほどその人は自立した存在である、なぜならそのうちの誰かがいなくなってもまだ多くの人に支えられているので決して倒れることはないから、というのです。

つまり自立というのは、「どれだけ人を頼りにしていないか」ではなくて「どれだけ人を頼りにしているか・頼りにできる人がいるか」ということでその度合いが決まる。

もちろん人に支えられるというのは常に相互的な行為としてしかありえないので、自分がそうしてもらっているように、自分も多くの人の支えになっていることが自立を達成するための条件になる、と。

 

これは「自立」という概念の話なので「自己と他者」の関係になるわけですが、こと自分の話、アイデンティティについても、この「リスク分散タイプ」が生きていくうえで大事だろうな、そんなことを思うわけです。

だから「○○を取ったら何も残らない」と言い切れる凄みは残念ながら獲得できないけど、いろんな分野に「私はこれです」ってものを分散させておくのは、出来うる限り上機嫌で生きていくうえですごく大事なことだと思います。

人間関係にしてもそうで、「自分にはこの人しかいない」「この人がいなくなったら私は生きていけない」というのは、それが純粋に愛情の度合いに換算できるのであれば美談かもしれないけど、往々にしてそうじゃないわけで、自分にとっても相手にとっても不幸につながる可能性の方が高い。

そうではなくて、「この人のこういうところが好きだな」という気持ちをできるだけ多くの人に対して抱き(願わくば自分もそ思われるように努め)、時と場合によっていろんな人と交わって生きていけばいいのかなと。

そういうのってなんか不純というかずる賢い感じがして嫌だなぁと思うし、実際「人脈づくり」的な打算と紙一重だったりもするんですが、相手の肩書きとか立場じゃなく人間そのものに対する公正さと敬意を持ち続けている限り、ちゃんとした人間関係になりうると私は思っています。

 

要するにね、あんまり「自分はこれだ」とか「こうでなきゃいけない」という決め打ちとか極端な絞り込みって危ないよね、「世の中にはいろいろあるなぁ」「おれいろんな人好きだなぁ」ってのが楽だよね、って話。

いやね、最近同年代の人が、その真面目さゆえに追い込まれて、それで……みたいな話を、世間的にも身近にも耳にしたりしたもので、なんかそういうことを考えてしまったミッドナイトでした。