布団あります まくらことば活動日記

歌ものロック/ポップスバンド、まくらことばのブログです。

【再録】秦万里子の世界

草木も眠る時間に目覚めたカープファン、サトー@まくらことばです。

……読売ジャイアンツ、優勝おめでとう!(振り絞るように)

巨人のここ一番という勝負所での強さ(半面カープの弱さ)を感じた9月、優勝するってのはこういうことなんだなと実感した次第です。

こうなればわがカープ、意地でも2位を死守してCSに臨むことに目標を切り替えたいですな(最後まで逆転優勝を信じてたこの広島人のピュアネスよ)。

 

さて、今日も音楽の話です。

最近何かが足りない、足りないなぁと思っていたら、「そうか、秦万里子が足りないんだ」と気づきました。

秦万里子についてはTVKでやたら流れてたCMで知ったわけですが、その後清水ミチコさんが最近注目しているとなんかの番組で発言されてて「さすが!」と膝を打ったものの、私の知る限りではいまだ世間的に秦ブレイクが到来したようには感じられません。

まぁ別に秦ブレイクを願っているわけでもないのですが、このままあの稀代のうっとうしいキャラクターが地味に消費されていくだけなのか……と思うと、いかにも秦万里子らしいなと思いつつなんだか残念な思いも同時に。

ということで今日は、私が昔やってたブログに2年前に書いた文章、おそらく秦万里子について書かれたテキストとして結構貴重なのではと自分では思っているものをここに再録して、秦ブレイクへの種火を灯し続けておこうかと思います。

 

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秦万里子の世界」

 

秦万里子という歌手をご存じだろうか。
「半径5メートルの日常を歌う音楽家」というキャッチコピーを掲げる、50代半ばのシンガーソングライターである。
私が彼女を知ったのはテレビ神奈川でやたらとコンサートのCMが流されているからで、TVKライトヘビー視聴者の私にとって、それこそ日常レベルで目にする歌手の一人となっている。

まずは秦の代表曲のひとつである「バーゲン・バーゲン」の歌詞を紹介する。

あ~女はバーゲン・バーゲン/何でもかんでもバーゲン・バーゲン/あの町この町バーゲン・バーゲン/命がけだわ/だって女はバーゲン・バーゲン/夏物冬物バーゲン・バーゲン/行かなきゃ損損バーゲン・バーゲン/バーゲンセール/待っていましたこの葉書/まだかまだかと思ってました/全品50%オフ/赤い数字が私を燃やす

いかがだろうか、このベタさ加減。
ベタは一周すると再度ネタになる(例:アイドルがハゲヅラを被る)わけだが、秦のベタさは最も取り扱いが危険な状態、ベタの極北にあると思われる。
続いて「ポイポイ」という曲の歌詞を引用する。

プライド ッポイ/気楽だ ホイ/笑おう ホイ/旦那はキープで/元気だ ホイ/夢よ 来い/ポイポイ捨てれば ホイホイホイ/ッポイポイポイ/ッポイポイポイ/ッポイポイポイポイポイポイ

ちなみにこの曲では、「ポイ」の部分で観客に振りが要求される。
手を前に払うだけの簡単な振り付けなので、席に座ったまま参加することができる。
だから会場にいるかぎり、何人もこれを免れることはできない。

 

秦は国立音楽大学を卒業後、あのバークリー音楽院に留学という異様なハイスペックの持ち主である。
当然だが、ピアニストとしての技量は高い。
「高い音楽的素養をもつ私が、あえて“下に降りた”音楽をやっている」という“後光”が、彼女の音楽を強力にデコレートしていることは間違いない。
彼女の主な聴衆である主婦層はこういった肩書に実に弱いものだ。
「でもあの人、ああ見えてかなり本格的な音楽教育を受けてるのよ!」

 

秦のコンサートの白眉は、彼女の客いじりである。
客の中から適当な人物を選び、いくつの子供が何人いるとか旦那はどんな人かなどを聞きだし、彼女の日常をテーマにした曲を即興で作り披露してみせる。
いじられた側が秦ビギナーである場合、最初こそ当惑気味であるものの、即興曲を聴き終わるころには彼女はすっかり秦に魅了されてしまっている。
またもう一つの見せ場として、主婦コーラス隊がある。
30人程度のおばさんたちからなるコーラス隊が、秦のピアノ演奏に乗って振り付きで秦のオリジナル曲を歌う。
このママさんコーラスからは、どう目をこらしても“美魔女”を見出すことはできない。
実に正統的なおばさん部隊である。
YouTubeではこのおばさんたちの練習風景を見ることができるのだが、ここでの秦の指導が厳しく本格的であることは推して知るべしだろう。
この厳しい練習で磨かれるのは、おばさん達の技量というよりも秦への帰依の心であろう。

 

以上のような秦のパフォーマンスに対し、「寒い」「キモい」「生理的に無理」という反応もまたよく目にする。
私もまったくそう思う。
ただ、そのように斬って捨てるのは簡単であるが、私は嫌悪感や拒絶感と同時に抗しがたい何かを感じることをここに告白するのである。

 

秦はその芸風から、「女版きみまろ」とも呼ばれる。
確かに中高年の日常をコミカルに描写する作品テーマ、客いじりなど、コンテンツそのものの類似性は容易に認められる。
しかし表現者としてのスタンスは、まるで異なっているように思える。

 

きみまろの提示するものは、あくまで「芸」である。
客にとってきみまろのライブに行くことは、「お母さん、たまには大笑いしてきたら」という周囲のリコメンドに顕著なように、日常からの解放である。
多くの人にとってきみまろのライブに行くことは、日常のペルソナを剥いで(逆に一部のおばさんにとっては仮面で盛装する舞踏会なのかもしれんが)気分転換に赴くことである。
きみまろの観客がいとも簡単にタガが外れたかのごとく笑い転げるのは、きみまろの作り出す非日常空間に対して何の不安もなく身を委ねているからであり、そういった解放状態をもたらす「場の信任力」を観る者の内部に惹起する能力こそが、きみまろの真骨頂であると思う。
彼の芸を散々浴びた後の爽快感は、スポーツの後のそれと酷似しているのではないか。
「あ~笑った、笑った、気持ちよかった」

 

それに対し秦万里子がライブ会場に再現させるのは、「秦万里子の世界」である。
秦の世界は日常からの逸脱ではなく、日常のオルタナティヴとして眼前に現れる。
「アンタ、私の世界に入ってくる覚悟はあんの?」――秦のラディカルな問いかけは、拒絶か承諾か、2つの選択肢しか用意しない。
いくつかの自分内手続き――それは秦が「ポイポイ」で歌うように主に捨てる作業と思われる――を済ませて秦万里子の世界に足を踏み入れたものは、自分を取り巻く景色が一変し、ほどなくして、もうかつての自分には戻れないことを悟るだろう。
現実世界では致死的にベタな秦の描く世界観がコンサート会場では何の問題もなく流通している事実や、秦の率いるコーラス隊が“いきいき中高年”というよりはゴスペル聖歌隊のような一体感を醸している事実に注目してほしい。
きみまろが要求するのは一時的な「笑う準備」でしかないが、秦は客に人格そのものを差し出すことを要求しているのだ。
きみまろにいるのはファンだが、秦万里子が擁するのは信者である。
まさしくその在り方は、宗教的というほかないだろう。
表層的にしか秦を見ない人は、彼女のファンを「よくもまぁあんな寒いことができるよな」と蔑むわけだが、秦万里子はそういった人が思うような「羞恥心の試金石」でなく、実は「信仰の試金石」であるのだ。

 

きみまろと秦の客いじりを比較しても、その違いは明瞭である。
きみまろの客いじりは、頻度においても距離においても秦を大きく上回るが、客が怪我をすることは決してない。
きみまろの客いじりは言ってみれば旭山動物園であり、大迫力でシロクマが迫ってくるものの、きちんと分厚いガラスが設置されたショーである。
いっぽう秦の客いじりは、これはもう猛獣野放し状態のサファリパークで、かつ鉄格子のついたバスなど用意されておらず、空身で歩かされているようなものだ。
いじりの対象となった客は、その身体に何らかの刻印を残すことなしに会場を後にはできないだろう。

 

人はどういう境地に達したとき、秦万里子の世界に入っていくのだろうか。
秦万里子の世界に入っていくために捨てなければならないものと、その世界に入ることで得ることができるものを比較考量したとき、私自身はまだ、前者のほうを多く抱えて生きているように思う。
しかし誰にでも、いつしか「秦万里子損益分岐点」を記録する瞬間が訪れる。
あらゆるものを捨て去ってでも、秦の世界に入ったほうがトータルでは幸せ、という境地は、彼女のコンサートに足繁く通いつめ、「お友達にもすすめてるのよ」と布教活動に熱心なおばさんの集団が、その存在を証明している。

 

これは嫌な予感の部類に属すると思うのだが、おそらく向こう10年以内に、私は「秦万里子損益分岐点」を迎えることになる、そんな気がする。
というのも私は、芸能通の母親と、日産のパイクカー・PAOを予約購入し魚屋の分際で最初期の携帯ユーザーに名乗りを上げた父親に育てられた、エリート・ミーハーである。
ベタの極みに対する耐性の高さと、怖いもの見たさの好奇心では人後に落ちない。
また、おしゃべり好きで下世話が大好物の、生粋のおばさん体質でもある。
これらから推しても、「秦万里子レセプター」を体内に備えていることは確実なわけで、あとは静かに損益分岐点への到達を待つのみである。
その時は潔く信仰の道に入り、相模原あたりのホールで憑かれたようにポイポイやる所存である。