軍艦島レポート
こんばんは、サトー@まくらことばです。
体調は99%回復しました、よかったです。
具合が悪くなること自体、私としては不本意なのですが、まぁそれは仕方ないとして、その後の復活の速さには自分でも満足です。
普段から免疫力は高めにキープしているつもりなので、そこに疑いが生じてしまうとそれこそ免疫力が下がってしまいそうで怖いです。
さて、今日は去る9月14日に行ってきた軍艦島のレポートをお届けしようかと思います。
まず軍艦島といえば、われわれ世代には何といってもこのCMでおなじみではないでしょうか。
公共広告機構 いつも考えていたい私たちの資源 CM 1982年 - YouTube
ガキの頃はこのCMに、心胆寒からしめられる恐怖感を覚え小便をちびりそうになったものですが、今改めて見ると、なんだか哀愁のほうが前面に出ているように感じられます。
当時は「廃墟萌え」などという社会文化は存在せず、メディアで廃墟の絵面を目にする機会はそんなにありませんでしたし、80年代を席巻したノストラダムスの大予言、例のハルマゲドンをどこか想起させる部分もあって、とにかく恐ろしい、日本にもこんなとこあるんか!? という衝撃を多くの少年少女に植え付けたのがこのCMかと思います。
でも今見るとこれ、内容にはいくつかの嘘が意図的に仕込まれていますね。
まず「石炭を掘りつくした」と言っていますが、これは事実と異なります。
端島(軍艦島の正式名称)炭鉱が閉山に至ったのは、60年代以降のエネルギー革命、すなわち化石燃料の石炭から石油へのシフトを背景としたもので、それに伴う石炭価格の下落により自国で採掘するより輸入炭を入れたほうが安く済むコスト構造になったから、つまり割に合わなくなったからです。
国内各地の炭鉱が閉山になったのも同様で、別に掘りつくして枯渇したからってわけじゃない。
ちなみに端島炭鉱は、最後まで黒字経営のまま閉鎖に至った珍しいケースとのことです。
同様に、最後の「私たちも今、資源のない島ニッポンに住んでいる」という決めフレーズがありますが、これ正確に言うと、「この当時の経済状況や技術力では採算の合う」ということわりが「資源」の前につくべきところで、この状況は今もって変わっていないと思います。
資源はあるけど使っていない、使う術がないという感じかしら。
なのでこのCMのメッセージの裏に原子力推進だとか、来るべき原油価格高騰への布石など何らかの意図があったのかはわかりませんが、明らかなミスリードを含む内容であったのは確かでしょう。
ひょっとして我々は、単に軍艦島の廃墟ぶりにビビっただけでなく、この背後に漂うプロパガンダ臭を子ども心に嗅ぎとって恐怖を感じていたのかも。
かように政治的・社会的文脈でいえば感心できないこのCMですが、今も多くの人の記憶に刻まれていることを鑑みれば、表現としては非常によくできたものではないかと思います。
さて、公共広告機構のCMにより異世界のSランク物件としてプレインストールされている軍艦島ですから、実際に行くとなれば非常に興奮するのも道理で。
軍艦島クルーズの遊覧船は長崎港から出港しているのですが、三菱の造船所や隠れキリシタンのたどり着いた島々などを眺めながら航路を進んでいくと、眼前に異様な浮遊物が現れます。
いやー、こんな風景見たことないよね。
そして船は次第に島に近付きます。
島への上陸は、軍艦島が現役だった頃から島の玄関口であった「ドルフィン桟橋」が今も使われています。
ドルフィン桟橋が設置されている島の西側は比較的波が穏やかだったようで、言われれば島の西側には、おそらく1974年に無人島になって以降でしょうが、緑が至る所に繁茂しています。
それに比べて波が高く、台風の時には堤防を超える大波にしばしば洗われる島の東側には、ほぼ草木は生えていません。
海が荒れた時には島全体が潮をかぶるなんてこともあったそうですから、いかに軍艦島が過酷な孤島であったかがしのばれます。
この厳しい自然環境が島の建造物を浸食し続けて現在の景観を生み出したのであり、たぶん1年後にはまったく違う姿になっているであろう無常観が、軍艦島特有の雰囲気を醸し出しています。
朽ち果てたというよりは、現在進行形で朽ちているのが軍艦島なわけですな。
ということで島内の建造物はどれも今崩壊しても不思議はなく、危険極まりない状態です。
よって長崎市が定めた上陸許可エリアは島のほんの一部で、正直もっと分け入りたいとも思ったのですが、この「ヘタに近寄れない緊張感」もまた、軍艦島の魅力なのかもしれません。
無事上陸を果たしたツアー一行は、ガイドさんの説明を聴きながら島の光景に圧倒されていきます。
(レンズに指が被っています……)
ほんの一部とはいえ目の当たりにする景色は迫力と異様さのかたまりで、周囲1.2キロの狭い島の中に、当時の国の基幹産業の一大拠点とそこで暮らす人々の生活施設を詰め込んだわけですから、物理的にも念的にもとにかく高密度な空間です。
今では巨大廃墟の軍艦島ですが、1890年に操業を本格化して以降は、近代技術の最先端が結集する場所となりました。
これは独身者の住居として使われていた建物(正面の黒っぽいやつ)ですが、建造されたのはなんと1916年、日本初の鉄筋コンクリート造の集合住宅とのことです。
そう、日本で最初のRC造高層住宅は、東京などの大都市圏ではなく、この九州の孤島に造られたのでした。
狭小な土地に多くの人が暮らすという特殊事情から、高さを生かした空間使用が必須だったため住宅は高層化せざるを得なかったのですね。
ちなみに軍艦島で採掘された石炭は、あの八幡製鉄所で主に使用されたそうです。
八幡製鉄所が日本の近代化に果たした役割は大変なものがありますが、それを支えていたのが軍艦島だったわけで、この小さな島はまさに国力を左右する存在だったわけです。
写真はありませんが、島内最大の鉱員住宅である65号棟は1945年に建てられています。
物資が全国的に不足したこの時期に大量の資材が投入されていることを鑑みても、いかに国が軍艦島を重視していたかがわかります。
軍艦島の特異性は、そういった最先端技術が結集した場所が突然に打ち捨てられ、廃墟と化した点にあります。
日本近代化の熱が冷めないままに時が止まり、朽ち果てていく。
ここには、他とは確実に違う時間の流れが存在しています。
そのほかにも、都会でもめったに見られない7階建ての学校、丘の上に建ち島を睥睨する幹部専用住宅(ここの崩壊ぶりが生っぽくてすごい)、病院と隔離病棟、神社などなど、ここでしか見られない施設の数々が死ぬほどタイトなレイアウトでひしめき合っています。
これらの建物はすべて渡り廊下で接続されていて、島中にはりめぐらされた地下道と相まって、島全体が秘密基地のような一体感をもっており、要塞都市とはまさにこういう空間のことを言うのだなと思います。
島内には映画館やパチンコ屋などの娯楽施設、床屋や郵便局、役所支所、交番なども存在しほぼ完全な都市機能を有していたのですが、唯一なかったのが墓地でした。
火葬場とお墓は、すぐ隣の小島・中ノ島というところにあったそうで、死を担う機能のみが島外にあったというのも、島が宿命的に死と隣り合わせの炭鉱という仕事場であったことと深い関係にあるのだと思います。
機能を徹底的に追求するとその物体は美しさを帯びてくるものですが、芸術性や美意識とは無縁の軍艦島の景観に言いようのない魅力を感じるのは、きっと徹底した空間活用が結果としてもたらした機能美が存在するからでしょう。
軍艦島は石炭の採掘という目的のためだけの場所でした。
それゆえに他にはない魅力を獲得したわけですが、同様に目的が失われた瞬間に捨てられた運命もそこに由来します。
私はこの世界的にも稀有な成り立ちと歴史を持つ場所を訪れ、日本の近代化そのものが、他に比するもののないほどのエネルギーとスピードを宿していたことを垣間見たように思います。
その物語を失って久しい我々現代人がいまこの島を訪れて何を思うのか――あの明治から昭和の熱量に匹敵する何かをもう一度探し求めるべきなのか、物語は終わったものとしてまったく新しい地平に踏み出すべきなのか、日本人は未だにこの2つの間で迷っているような気がします。
最後に帰路の船から撮った軍艦島の全景を。
この写真を見返して、一瞬、モン・サン=ミシェルを連想したりもしましたが、やはりあの正統的な美しさと軍艦島の異形ぶりは較べようのないものであると思います。
軍艦島、歴史好きの方や廃墟好きの方はもちろん、単なる観光名所としてでもぜひ、機会があれば行かれることをオススメします。