あの言葉、あの光
こんばんは、まくらことばのサトーです。
実は日曜から昨日にかけて、福山の実家に帰っておりました。
伯父さんが亡くなってそのお葬式に参列するためで、バタバタの帰省でしたが無事お通夜と本葬に顔を出すことができました。
伯父さんは、今年十三回忌をむかえる父より7つくらい年長、祖父亡き後佐藤家の長だった人で、女の人が圧倒的にしっかりしているという我が家の系譜に則り、家父長的な振舞いとは無縁のたいへんに優しく面白い人でした。
祖父が亡くなったのは私が小学4年のときでしたが、それまでは盆暮れ正月の節目には必ず親戚一同が祖父宅に集合し、大人たちは酒宴、ガキどもははしゃぎ回るという親戚会合が開かれていました。
ですので私にとって親戚の大人たちは皆親も同然、いとこたちも仲が良く友達以上の存在でした。
しかしおじいさんが亡くなってからはそのような会合が開かれることもなくなり、誰かの葬式や法要でしか親戚が一同に会することはありませんでした。
中でも私は東京に生活の拠点を移したこともあって佐藤家では一番のレアキャラとなってしまい、今回も「おお、よう来てくれたのー。ほんであんたぁ誰な?」という挨拶がデフォとなっていました。
しかしこうして久しぶりに親類の皆さんと顔を合わせ、「元気にしょーるんか?」的な会話に終始するのも、本当に得難く、貴重な体験でした。
亡くなった人がこうした機会を作ってくれて、時代とともに希薄になる親族の繋がりをかろうじて守ってくれているのだと思います。
私と同じジェネレーション、つまりいとこたちは皆30代~40代の中年となっていましたが、それぞれが、自分の人生を懸命に生きている様子がうかがえました。
我が家は本当にいい加減でエリートなど皆無、地を這うような生き方をしている人たちばかりですが、それゆえに「何しょーるんか知らんが、生きとるみたいじゃけそれでええわ」というような、圧倒的な肯定感に包まれています。
聞くところによれば、“普通の家”では、「一族としてのふさわしい振舞い」とか「果たすべき最低ライン」の不文律が存在しているようで、それが度を超して、親類からの期待やプレッシャーに押しつぶされてしまう人もいるそうです。
しかし、昨日兄とも話したのですが、「よその家の話を聞くとびっくりするなぁ、ウチはほんまひでぇわ、生きとるだけでええんじゃもん、ハードル低すぎじゃろwww」というように、佐藤家のプレッシャーのなさはちょっと無重力的な域に達しています。
そのような環境の中で、「かくあるべし」を何ひとつ押し付けられることなく、「人様に迷惑かけんのと、死なんかったらそれでええ」と育てられたことがいかに幸福で感謝すべきことなのか、改めて実感します。
たぶん、私たちが今やっているような音楽を聴くような人は、我が一族には一人もいないでしょう。
でもそれは単純に趣味の問題で、私がEXILEを聴かないこととまったく同次元の、キュウリとトマトが違う野菜である、くらいの話です。
私は、「自分にしかできない音楽」を目指すものとして、この人たちに囲まれて育った自分を、素直にまくらことばの音楽に刻み付けていければと思います。
私が東京へ帰るため一足早く会場を後にすることを告げたとき、見送ってくれた従兄弟が「おやじは恭ちゃんのこと、実は好きじゃったんで」と教えてくれました。
そういえば昔、私の親父の葬式の時でしたか、これといった目標もなくふらふら生きていた私を「まぁええわ」と肯定し、「東京で頑張りや」と声をかけてくれた伯父さんのことを思い出しました。
我が一族の人間は、(社会的な意味では)取るに足らない人たちばかりですが、「他人に求めない」ということでは、ちょっとしたものがあるなぁと思った次第です。
何より私がその恩恵にあずかり、いまこうして好きなことをできているのですから、他人に求めないことの大事さを誰よりも知るべきなのでしょう。
先日のライブでは、今いる場所と応援してくれる人たちへの感謝をあらたにしましたが、今回の帰省では、自分を育み、この場所まで導いてくれた人たちへの感謝でいっぱいになりました。
帰りの新幹線で私は、bonobosの「あの言葉、あの光」を繰り返し聴きながら、東京へ戻りました。
消えちゃっても 消えちゃっても
僕らにずっと優しくしてくれた
あの言葉 あの光
よみがえるよ