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布団あります まくらことば活動日記

歌ものロック/ポップスバンド、まくらことばのブログです。

原点を確認した夜

おはようございます、サトー@まくらことばです。

昨夜は大変に楽しい飲み会でしたが、結局家にたどりついてベッドに入ったのは午前3時に近いころだったでしょうか。

それでも6時には目が覚めてしまって、まったく飲んだ翌日は眠れないもんだなぁと。

 

昨日はいろんなことがありすぎて何を書けばいいのかよくわからないのですが、とにかく、今自分がいる場所に感謝する思いと、まくらことばのようなバンドができる喜びをかみしめています。

そして、私いま37歳ですが、ここにきてやっと人生が楽しくなってきたというか、随分時間がかかったけどようやくまわりの人と自分のすることを愛することができるようになった気がします。

ニュー・シネマ・パラダイス」の別れのシーン、アルフレードがトトに「二度と帰ってくるな」と命じたあと、「自分のすることを愛せ」という言葉を贈ります。

「自分のこと」を愛するのはいともたやすいことですが、「自分のすること」を愛するのはいかに困難で、気の遠くなるような積み重ねの先にあるものか――初めてあの映画を観た時にはまだ幼すぎてわからなかったのですが、その困難さを知って周囲に感謝することを覚えるための時間が、私にとってはこの18年間だったのかもしれません。

 

1996年、私は生まれ育った広島県福山を離れ、東京に出てきました。

表向きの理由は大学進学でしたが、私はその頃本気でミュージシャンになりたいと思っており、そのための第一歩として、東京で暮らすことを始めたのです。

とはいえそれまでにバンドを組んだり、人前で演奏した経験は皆無であり、いくつかのギターコードを知っていて、お遊びのような曲を作ったことがある程度のことしか自分にはありませんでした。

普通に考えたら、まず大学の音楽サークルにでも入ってメンバーを見つけることから始めるのが一番なのですが、馬鹿みたいに人見知りでそのくせプライドだけは高い当時の私はその機会を逸してしまい、結局自分の大学では何一つ音楽にまつわる行動はせず、ただ授業を受けに行き、同じクラスの数名の顔見知りと会話する程度の学生生活を送っていました。

それはそれはつまらない毎日で、1年生の後期からは次第に大学から足が遠のくようになりました。

 

ですが幸運なことに、上京後すぐに始めたコンビニのバイトで、私は運命的な出会いを得ました。

私より3つ年上で、違う大学に通う青木さんとの出会いです。

彼とは会ったその日から音楽の話をしていたように記憶しますが、はじめて会ってから当時荻窪駅北口にあった青木さんの家に入り浸るようになるまで、それほど時間はかからなかったように思います。

青木さんは古今東西の音楽に精通し、特にロックとジャズに関してはあらゆる名盤を渉猟しており、すでにインディーズでCDも出しているような人でした。

また、生来のリーダー気質の持ち主で、彼の周りにはいつも友達が溢れており、たくさんの人が集まっては青木さんが中心となって何か面白いことが始まるような日々を過ごしており、気が付くと私もその渦の中に入り込んでいたのです。

結局、自分の大学では一切音楽に関する行動を起こさなかった私が、青木さんの大学のサークルに顔を出すようになり、生まれて初めてステージ経験をさせてもらったのもそこでの学園祭ライブだったりします。

 

そこで私は自作曲をいくつか披露したのですが、終演後、私に手作りの名刺を差し出してきた青年がいました。

その名刺にはたしか、「遊佐一弥」という名前の横に「bass担当」とあり、これは時代を感じさせるのですが、ポケベルの番号が書いてあったように記憶しています。

同じ大学1年生ですが私は浪人を経ているので1つ年下の彼は、背が高くひょろっとして眼鏡をかけ、いかにも70年代の古着という緑色のコートを着ていました。

そこからどのような経緯があったのかは詳しく覚えていませんが、その出会いから数か月もしないうちに、彼と一緒に当時の私の下井草の部屋で曲を作り、4トラックのカセットMTRに吹き込んでいたことを思い出します。

青木さんと遊佐くんが所属していたサークルは、過去にプロミュージシャンを輩出したこともある名門で、今思ってもレベルの高い音楽環境だったように思います。

ティンパンアレーのようなシティポップスを演奏するバンドや、ザ・バンドのようなアメリカンロックを弾きこなすギタリストもいたように思いますが、私のように歌もギターもド下手で、だいたいお前どこの誰だよという男に、遊佐くんは何を感じたのでしょうか。

ともかく、彼は私にとって自分を初めてバンドマンとして認めてくれた存在であり、そのことに対する感謝と恩義は、今も私の中に確実に存在しています。

 

翌春、2浪を経て上京してきた私と同郷のドラマーを迎え入れ、私たちはようやく、バンドとしてのフォーマットが整いました。

曲はすでに何曲か作りためていたのですぐに活動を開始し、ほどなくしてライブハウスにテープを持ち込み、昼の部からブッキングライブをスタートさせました。

そのころにはすでに私は大学に行かなくなっていて、CD屋や書店でのアルバイト生活を始めていました。

結局大学には1年しか行かなかったのですが、自分にとっては上京のきっかけに過ぎない進学だったので、中退することに後悔や躊躇は一切ありませんでした。

ただ、後年になってこの時両親にかけた心配と落胆に思い至り、軽率で独りよがりな行動だったと反省しています。

90年代後半は明らかにバンドブームだったと思いますが、上手いバンドが掃いて捨てるほどいた中で、私たちのバンドは並みの高校生以下の演奏力しか持ち合わせておらず、上達のペースも遅々としたものでした。

なのでデモテープをレコード会社やプロデューサーに送ったりもしましたが反応はゼロ、忙しい音楽業界人の貴重な時間を無駄に使うだけのゴミにすぎなかったのでしょう。

なのですが私は、バンドをやっているのが楽しくてたまりませんでした。

もうこんなに楽しいことがこの世にあってもいいんだろうかと。

そして不遜なことに、どんなに下手であろうと、自分の作る曲には絶対の自信をもっていました。

 

根拠のない自信を裏付けていくように努力と研鑽を重ねればよかったのでしょうが、私は愚かにも、その自信を次第に思い上がりに変質させていきました。

おれはいい曲を作ってるんだからうまくはずなのに、なんで状況は進展しないんだ!

私はいらだちから責任転嫁を始め、バンドに大ナタを振るうことが現状打破の唯一の対策だと信じ込むようになりました。

さらに、そもそもバンドマンなら通過しなければならないコピー経験をほとんど持たず、ほとんどすべてを我流でやっていた私には、基礎練習を積み重ねるような習慣と根気が決定的に欠如していたのです。

この私の思い上がりと怠惰な性分は、当然の帰結として人が離れていく結果につながりました。

同級生が大学生活を終え社会人になろうとする頃、私は何の目標も情熱ももたないバンドマン崩れのフリーターで、かつて楽しい時間をともに過ごした青木さんとも遊佐くんとも音信不通になっていました。

 

26歳でなんとかもぐりこんだ会社に就職してからは、あっという間に時間が過ぎていきました。

たぶん10年近くの間、ギターを触ることもなく日々を過ごしていたように思います。

 

32、3歳くらいの頃でしょうか。

私は昔一度行ったことのある、青木さんの南房総の実家を突然訪ねました。

それは趣味の釣りの道すがら、ということになっていますが、私にとってはかなりの覚悟を決めての行動でした。

人並みの経験を重ね、自分にとって本当に大切なものは何なのかようやくわかりかけてきた私が、勇気をふるってそれを手にしようとしたのです。

十数年ぶりに突然訪ねた私を、青木さんは昨日別れたばかりのように迎え入れてくれました。

止まった時計が動き始めて、再びあの楽しい時間が始まったのです。

この再会を喜ぶ中で、私は自分の中でくすぶっている音楽への思いも同時に発見することになりました。

そうだ、自分は音楽がやりたくて東京に出てきたんだった……そしてその思いは今もまだ自分の中にあって、たまにどうしようもなく心を揺さぶるのです。

 

止まった時間はすでに動き始めたのだから、ここは強引にならず、あとは日々やるべきことをきちんとやっていこう。

その中で音楽への思いを果たせるチャンスがあるならば、その時は少しの勇気をもって扉を開けてしまおう。

私はそう思って、ここ数年間を過ごしてきました。

 

自分への執着を捨てて自分のすることに向き合っていれば、状況ってすこしずつ動いていくものなんだなぁ――私は近年の奇跡のような出会いの連続に驚きを感じながら、同時に必然のような気持ちも抱いています。

気が付けば私は、もう10年くらい一緒にいるように思える新しい友達と、10年以上会ってなくてもずっと一緒にいたような19歳で出会った友達と、新しいバンドを組んでいました。

そうやって始まったバンドがまくらことばであり、それを見守ってくれているのが、昨夜私たちがともに時間を過ごした人たちなんだなあと思います。

 

みんな、本当にありがとう。

まくらことばは、止まった時間を動かす魔法のようなポップスを奏でるバンドです。