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布団あります まくらことば活動日記

歌ものロック/ポップスバンド、まくらことばのブログです。

成長した「関東文化系少女」

恭介

おはようございます、まくらことばのサトーです。

もう桜の開花宣言は出たのかな? 東京の街にもいよいよ春がやってきたようですね。

 

さて、以前記事でも触れたことがあるのですが、まくらことばに「関東文化系少女」という曲があります。

この曲の歌詞は、関東近郊の退屈な風景をバックに、そこで過ごす女の子をイメージして書かれたもので、私にとっては初めての三人称的アプローチによる作品です。

 

私は数年前、よく房総半島の外房地域に遊びに行っていました。

広島時代からやっている趣味のバス釣りをこっちでも再開して、あのあたりの川や池(関東ではあまり池とはいわず沼とか堰といいます)に通っていたのです。

その後、釣りの種類が海のルアー釣りに変わって今度は南房地域に通うようになったのですが、いずれにしても、もともとが田舎の人間なのに都会暮しが長くなっていた私にとって、房総半島の景色や雰囲気は言いようのない安堵感を感じさせるものでした。

とはいえ私が育った山陽地方の自然と様相は異なっているので、私にとっての房総通いは、懐かしさというよりは新たな世界を開拓する高揚感に満ちた体験となりました。

房総といえば雄大な太平洋がまず思い浮かびますが、高低差の少ない地形ゆえか、実は海を望むことができるのは沿岸部だけで、大半はのどかな田園風景と地方の町並みだったりします。

私はむしろ、オーシャンビューよりはこっちの田舎風景の方に惹かれていて、休日の早朝、朝もやの残る道を車で通り抜けたり、田んぼの中のにふいに水辺の景色が現れ、そこに降り立って無心にルアーを投げていると、何とも言えない幸福な気分になったのでした。

 

「関東文化系少女」を作っているとき、2番の作詞にとりかかって私の脳裏に浮かんだのは、あの房総の景色でした。

田んぼと川の緑の風景と、その中を走るダンプとかガラの悪いバイク。

国道沿いにはパチンコ屋とかカラオケ屋なんかがあって、でっかくて派手な看板がポツリと立っている。

“日本の原風景”とか“雄大な自然”とかじゃなくて、リアルな日本の地方のあの感じの中で、感受性の強い女の子はどんな風に日々を過ごしているんだろう……電車に数時間揺られれば東京に行けるという距離感を内面化しながら退屈な日常を過ごす少女……。

私は彼女に真っ白なキャンバスを用意し、そこに一本線を引いてもらうことで、この歌を締めることにしました。

 

さて、場面は変わります。

昨日、仕事を終えた私は、いつもの通い慣れた商店街に足を向けました。

井上コトリさんの新刊絵本『かきたいな かきたいな』の刊行イベントが、お馴染みの文具店ハルカゼ舎さんで始まるその初日、なんでも先行発売で本も買えるとのこと、これは行かなきゃと。

店頭では、作品の中に出てくる文房具が実際に並べられ、壁には絵本のパネルも飾られていました。

ほかにも今回しか買えないセットなんかもあって、本にはコトリさんのサインも入っていました。

店主の間瀬さんといろいろおしゃべりしてからお店を出ると、私は『かきたいな かきたいな』をここで買うことができてよかったと改めて感じました。

 

『かきたいな かきたいな』のページをめくると、そこにはあの、コトリさんにしか書けない土曜日の昼下がりのような世界が、コトリさんにしか出せない色づかいで描かれていました。

主人公の「あかいろちゃん」の歩みをじっくりと読み進めるうちに、私は昔観た映画のことを思い出しました。

フォレスト・ガンプ」は名作として定評ありますが、個人的にも忘れることのできない映画で、人生で大切なことの大半があの映画にあると思っているくらいですが、主人公のフォレストとあかいろちゃんが重なって見えたのです。

フォレストもあかいろちゃんも、彼/彼女が通り過ぎたあと、そこに幸せが残されているところに。

 

フォレスト・ガンプ」はフォレストの波乱万丈な人生を描く作品で、悲しいこともあるけれどハッピーエンドの作品でしたが、あかいろちゃんの旅はどのようなエンディングを迎えるのだろう……私は静かな期待と緊張を抱きながらページを繰っていきました。

するとあかいろちゃんは……おっと、これ以上はネタバレになっちゃうからもうこの辺にしておきますね。

 

ただこれだけ言わせてください。

この本の最後のページにたどり着いた人は、必ず「探す」と思うのです。

そして注意深くページに目を凝らした結果、「探す」のを終えることにしたとき、私の胸に去来したのは、今までに味わったことのない感情でした。

それはあの「フォレスト・ガンプ」でも味わうことのできなかった気持ちです。

 

作品と作者を重ね合わせて鑑賞することの是非は、本でも音楽でも古今議論されてきたことだと思います。

あかいろちゃんはコトリさんの化身ではないし、『かきたいな かきたいな』がフィクションであること(だって文房具の国だよ!)は明らかなので、これは私の個人的かつ勝手な感想であることをお断りしたうえで言います。

私は『かきたいな かきたいな』を読んで、何か覚悟のようなものを感じました。

いちおう何かを作ることの末席にいる人間として背筋の伸びる思いがしたし、井上コトリという絵本作家の魂を見た気がしました。

表現すること、それを通じて誰かを幸せにすることって、こういうことなんだって。

 

かつて、房総半島の「海も山も途切れた街」で真っ白なキャンバスに一本線をひいた少女は、長い道のりを経てこんな境地にまで至ったのか――私は驚きと、敬意と、ちょっとの嫉妬を覚えます。

「そしたら やっぱり かきたくなって……」

この言葉がどれくらい重いものか、私には想像の術もありませんが、まくらことばとしてこの人に認められるような作品が作りたい、心の底からそう感じます。

コトリさんが結成のきっかけを作ってくれたまくらことばは、来月、初めてのアルバムをリリースします。

音楽というフィールドから、『かきたいな かきたいな』で彼女が到達した地点にどこまで近づけるのか、新たなテーマを胸に、今日もレコーディングに取り組むつもりです。