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布団あります まくらことば活動日記

歌ものロック/ポップスバンド、まくらことばのブログです。

オザケンのこと(その2)

恭介

おはようございます、さとすけ@まくらことばです。

フィギュアスケートで金メダルをとった羽生選手ね、似てるかと言われればそうでもないのですが、彼のそこはかとないオザケン感は何なんでしょうねぇ。

氷上のオザケン登場に、かつてのベレー帽少女たちはドキドキのバクバクなんだろうな、などと思いながらTVを眺めていた週末です。

 

オザケンと言えば。

最近ようやくクルマでipodが聴けるようになったって話を以前しましたが、昨日もシャッフルにして雪解けの街を走ってたんですね。

今私のipodには3500曲くらい入っていて、だからシャッフルで聴くと予測不可能、自分でも「おお、これが!」みたいな曲がかかって新鮮な感じでなかなか楽しいのですが、そんな中に一気にもってっちゃうというか空気が変わってしまうような曲があって、そうか、シャッフルってのはその曲の地力みたいなものが明白になる聴き方なんだなと改めて感じている次第なんです。

でね、昼飯を食べてふたたびクルマに乗りこんだタイミングでだったか、オザケンの「ラブリー」が不意にかかってですね、やっぱり強力に響いたというか、最近聴いてなくて久しぶりだったこともあって、「おお!」って高揚したんです。

 

改めて「ラブリー」、凄い曲ですよね。

あんな曲、後にも先にも聴いたことがないしおそらく誰も作らないだろうと(「待てよ、もう1曲聴いたことがあるかも」と思い当たったのはやはりオザケンの「ドアをノックするのは誰だ」でした)。

以前私、オザケンの最高傑作は「ある光」だなんて言いましたが、それはちょっとサブカル観点がすぎるというか、やっぱり絶対値の高さみたいなところで「ラブリー」かな、まぁ較べる話でもないんだけどさ、「ラブリー」の空前絶後な感じってホント、ねぇ。

や、世の中にアッパーチューンってたくさんあるんですよ。

でもそのほとんどはカラオケで歌いまくられた後パチンコ台になったりするような消費のされ方だったりする。

そりゃそうですよね、ノリノリでアゲアゲであることを目的に作られるんだから、あらかじめ時限爆弾を仕込まれてていつか消えてなくなるのがアッパーチューンの宿命ですから。

なのになぜ「ラブリー」だけは今なお輝きを失っていないのか。

日本ポップカルチャー史上最も尖った才能をもった男が紅白歌合戦五木ひろし谷村新司を従えて歌ったこの曲、改めて歌詞をたどってみると、全然アッパーじゃないことに気づくんですよね。

 

あのね、冷静に見ていくと、この曲で確かなこと(ファクト)って「夢で見た彼女」と会ったことだけなんじゃないかと思うんです。

「夜が深く長い時を越え」たあと、「他の誰かじゃまるでダメ」な人との出会いがあった、ただそれだけ。

だから「Lovely Way」も「甘くすてきなデイズ」も、これからそうなるであろう、そうなってほしいという願いであって、現時点で手にしている果実ではない。

「誰かと完全な恋におちる」にしても「僕ら外に飛び出す」にしても、「いつか」なんですよね、現にそうなってるってわけじゃないと思うんです。

つまりアッパーなのは夢のようなファクトを手に入れているからじゃなくて、その可能性を信じて世界に向き合っている気持ちがそうなんです。

それだけだと「はいはい妄想、乙」で終わっちゃうかもしれないけど、深く長い夜を越えてきたし、とても寒い日にそれでも手を叩いて朝の光を待っていた、つまり時には逆境にもあったけどずっと待ち続けていま、人生が再び始まるような(Life Is Comin' Back)希望を手にした、その確かな手ごたえがあるから、この曲はいつまで経っても輝いているんだろうと。

 

オザケン表現者としての神髄は、ファクトの当事者としての高揚感と、それを少し離れたところから見ている観察者の視点を一つの作品の中で両立させてしまうことにあると思ってて、「ラブリー」では、いま自分を突き動かすこの上ない喜びを爆発させながら、過去と未来の自分を俯瞰するような視点からも描いている。

かつてタモリオザケンの作品に「老人の視点」の存在を指摘しましたが、まさにこの複眼的視点が、オザケンの音楽を燦然としたものであり続けさせているのだと思います。

複眼的な視点から現実を描きながら希望を織り交ぜていく――やっぱりオザケンの歌って、祈りの歌、ゴスペルなんだよね。

 

そういえば「天使たちのシーン」という曲には、「生命の熱をまっすぐに放つように/雪をはらいはね上がる枝を見る」というフレーズがあって私は大好きなのですが、「見る」ってのがいいんですよ、すごく。

昔何かの本で「観察力こそが想像力なのだ」という言葉に触れてはっとしたのですが、世界を見る人がこの世界で何かを作り出す人なんだ、オザケンもそういった作法で魔法のような音楽を作っていたのだと思います。

 

いきなり卑近な話になって恐縮ですが、初めはエクササイズ目的で始めた私のランニング、最近は街や多摩川の風景を見ながら、そこに一体化することがとにかく楽しくなってきました。

風景に身を委ねて走っていると、普段の延長線上にありながら、いつもは考えないようなことが頭に浮かんできて、それが走る楽しみになっているんです。

昨日はね、雪解けの水が流れ込んでいたのか、今まで見たことのない力強い印象の多摩川でした。

大雨の後の鉄砲水みたいな増水ではなくて、雪国の冬の終わりを告げるような、水面が静かに盛り上がっているような。

そんな多摩川を眺めていると、たぶんもう何回か東京にも雪が降ると思うけど、そのたびにこうやって力強く雪解け水を流していくんだろうなあ、今は北風が吹きつけて手袋をしてても手がしびれるくらいに寒いこの土手の上も、時間が経てば南からの春の風が吹くようになるんだろうなあ、と思えるんです。

春の到来を祈るような気持ちっていうかね。

 

 

見ることから始まって、何かを祈る気持ちになる――小沢健二の歌のように人生(ショータイムのような!)を過ごせたら素敵ですね。