What a Wonderful World !
おはようございます、まくらことばの渡辺です、ってウソですサトーです。
予報では降る降ると言われながら結局東京に降雪はありませんでしたが、それにしても寒い毎日が続いていますね。
そんな中、あったかいモン食べたいと思う吹雪様と私は、最近よく会社の近くのリンガーハットに行っています。
リンガーハットの「野菜たっぷりちゃんぽん」は、文字通り野菜がてんこもり、かつラーメンみたくギトギトしてなくてあっさりスープ仕立てなので、食後の罪悪感が麺ロード1.0および3.0*1に較べて格段に軽いのです。
「野菜たっぷりちゃんぽん」と、今年から宅配してもらうことにしたヤクルト400*2で、この大寒波を乗り切る心づもりのサトーです。
さて、唐突ですが、皆さんは今の日本の社会ってダメだと思いますか?
なんかね、それこそ枕詞のように、「今の日本がダメなのは~」って語り出す人ってすごく多いと思うし、なんとなれば自分もそういう物言いとかしてるかもしれん、あ、してたかもなんて思うのですが、確かに個々の問題を取り上げてみると看過できない社会問題があちこちに積み上がっているし、戦後日本最大の危機とも言われた3.11を経験してもなお、変わったようで何も変わっていない現実もあったりで、まぁダメなところを挙げていけば、それこそ長大なリストが作れると思うんですね。
そういう現象的なこととか制度的なことだけじゃなくても、たとえば若者が無気力・無関心になっていてけしからんとか、高齢者は高齢者ですぐキレるような人が増えているとか、そういった物言いもすごくあって、実際電車内で地べたにかばん置いてスマホいじって、人の流れを著しく阻害している高校生がいたらぶっ殺してやろうかとか思うし、些細なことで声を荒げるジジイとか見ると「この老害が!」って怒り心頭になることもあるわけで、その方面でもエビデンスを収集しようと思えばいくらでも。
ま、上記のように腹が立つことがままある!ってのは世の中云々とはちょっと次元の違う話なんだろうけど、私も一応、そういったことには無関心ではなくて、いやむしろ過剰に首を突っ込むタチかもしれず、その延長線上にですね、「社会を良くせねば」みたいな思いも少しはあったりするわけです。
それでね、私わりと今まで「怒れる人」というか、「今の世の中ダメ!」みたいなところを、無条件に観察とか思考の出発点に据えていた気がするんですね。
出発点がそこだから、「じゃあ今のようではない、理想的な社会とは何か」みたいなことを自動的に考えるわけですが、そこで何か新しい発想を提示すればいいんだろうけど、私がとった道筋は「昔は良かった」という最も怠惰な志向性で、たいして老成もしてないくせに“古き佳き日本”を論拠に、威勢よく大ナタを振るっていた*3ような気がします。
これって今思うと、紛うかたなき「おっさん化現象」にすぎないわけで、見事なまでに凡庸なのは仕方ないとして、この怠惰さってのはちょっと反省しなきゃいけないな、と。
なんでこんなことを思うのかというと、最近はあんまり「世の中けしからん」って思わなくなったからなんです。
や、そりゃあさ、日々個別に腹の立つことはあるよ、電車暑いとかさ、駅の便所がきたねぇとかさ、飲食店のオペレーションが悪いとかさ、もうわんさかと。
でもそういった個々の怒りを、「だからこの国は駄目なんだ!」とか、あまつさえ「昔はこんなことなかったぞ!」とか、大きいところに収斂する回路は断線したような気がする。
なんかね、そういう物言いってすごく怠惰で恥ずかしいし、何より顔の見える友達が何人かいたら、言えなくなる気がするんですよね。
そう、「怒れる人」だった頃、単純に私には友達がいなかったんですよ。
もちろんそんなこと言うと、その頃私の周囲にいた人は気分を害すると思うのですが、問題は私の側にあって、私が人のことを思う気持ちに欠けていたって話なんです。
だってさ、いくら仲が良くて感覚とかモノの見方が似てるっていても、本当に突き詰めればそれぞれ違う人間なわけで、その違いを受け容れることぬきに人間関係って成立しないと思うんですよ。
で、当然違いがあればある事象に対する感じ方も違うわけで、「おれはこう思うけどあの人はこうは思わないだろうな」という思考がはたらく。
そのサンプル数が増えれば増えるほど慎重になってくるというか、簡単にクリアカットな物言いができなくなる。
なんかそういう「ためらい」が自分の中で起動することが多くなって、とくにこういうネット上では、角の立つような物言いはできないなぁって年々思うようになってるんです。
だからさ、ネット上で、特に政治イシューをトリガーにして呪詛の限りを尽くしているような人っているじゃないですか、ヤフコメとかで。
ああいう物言いができる人って、単純に友達いないんだろうなぁ、って思う。
「こんなこと言ったらあの人はどう思うかな」って想像力がちっとも起動しないってのは、本当にさびしいことだと思うな。
なんかね、自分の中に「ためらい」が重層的に蓄積されてくると、もう肯定的なことしか言いたくなくなってくるのよ。
いくら切れ味鋭く批判的なことを言ってもむなしいというか、それで人は、少なくとも顔の見えるような人は、喜んでくれないですからね。
閑話休題。
ベトナム戦争を題材にした映画はたくさんありますが、私は「グッド・モーニング、ベトナム」という映画が一番好きなんですね。
この映画は戦場ラジオのDJが主人公の戦争映画としては異色の作品で、戦争映画には必須の戦闘シーンがほとんどない。
戦闘シーンはほとんどないんだけど爆撃シーンはあって、それはアメリカの兵隊が攻撃されるものじゃなくて、アメリカの空爆機がベトナムの農村を焼き尽くすシーンで、生々しい映像としてではなく、引きのパノラマアングルで淡々と展開していくんです。
そのシーンではルイ・アームストロングが歌う「この素晴らしき世界」が流れるのですが、私は長い間、なぜこの空爆シーンでこの歌が流れるのか、その理由をずっと考え続けてきました。
「グッド・モーニング、ベトナム」はあからさまな主張はないけれど明確に反戦映画、それもアメリカ自身を批判的に描く作品ですが、それがゆえに最初は、皮肉としてこのシーンと「この素晴らしき世界」が組み合わされていると思っていました。
なんだけど最近、それはちょっと表層的な見方なんだろうなぁと思い始めて。
最近はこう思うんです。
そういった愚行にも何がしかの意味を見出して、明日の人類がこういったことから少しでも遠ざかる選択ができるように働きかけるためには、どうしたってここから出発しなきゃいけない。
だからとりあえず、「それでも世界は素晴らしい」って言ってありのままを受け容れることから始めるんだろうなと。
愚行を批判するだけだったら、結局カウンターとしての新たな力、すなわち愚行を生み出すだけだもんね。
……話が大げさになってしまいましたが、私が言いたかったのは、怒りにまかせて何かを表現するなかれって自分に戒めると同時に、それを食い止める「ためらいの層」をもっともっと厚くしていくことが大事なんだろうな、って。
昔が良かったって言っても、実際は「いまここ」から始める以外に方法はないわけで、今が最悪の状況だったとしても、とりあえず肯定することからしか動き出すことはできない。
そして、人のことを想う気持ちが私を呪詛の言葉から遠ざけ、この世界を少しでも輝きに満ちたものにしてくれる。
吹雪様は前回のエントリーで「人のことを思う気持ち」が新たな魔法をキキに授けたと書いていましたが、まさに私が言いたいのも同じこと、自分以外の誰かや何かを愛することでしか、自分自身の居場所を楽しくすることはできないというルールが、どうやらこの世界にはあるらしいぞ、ってことなんです。
冒頭の話に戻ると、「世の中を少しでも良くしたい」と思うのであれば、ネガを探して糾弾するような仕方ではなくて、とりあえず「What a Wonderful World!」って言ってみること、それでもって自分にとって大切な人や場所、モノを増やしていくこと、そういう仕方がいいんだろうなぁと。
ま、それ以外にするべきことって、実はそんなにないんですけどね。