フール・オン・ザ・ヒル
こんばんは、まくらことばのサトーです。
えー、いい加減正月気分から抜けろやって話なんですが、実は今回の年末年始帰省ですごく感じたことがありまして。
というのは、今までは郷里に帰るといくばくかのホーム感というか帰ってきたぞ感が、回を追うごとに薄れていくとはいえ確かにあったのですが、今回は一切それがなく、ホントにただの旅行というか、実家というよりタダで泊まれる旅館って感じの印象を受けたんですね。
もう私の地元は東京であって、福山はゆかりのある土地の一つにすぎないというか。
それは悲しいことでも言祝ぐべきことでもないニュートラルなことで、単純にそれだけ時間が流れて自分も年を取ったという話で、これからは郷里とも、またちがった距離感で向き合うことになるのかな、なんて思っています。
でね、まぁそんなタイミングでちょっと高校時代のことでも書こうかな、今までとは違う視点が出てきたりするのかな、なんて思ってパソコンに向かったのですが、自分が高校の頃について書いたものとして、真っ先に「フール・オン・ザ・ヒル」というテキストの存在を思い出したんですね。
これは2008年7月だから今から6年前、当時熱心に更新していたmixiに書いたもので、その後mixiを引き払って個人ブログをやっていたときにも再録したのですが、その個人ブログも開店休業状態になって久しいと。
でもこのテキスト、自分にとってすごく重要というか、いろんなものと向き合うときにいつも立ち返る原点というか、単純に自分が今まで書いたもののなかで一番気に入っているもので。
そんで今回も、やっぱり高校時代を振り返った文章として自分はこれ以上のものは書けないし、「フール~」があればもう書くべきこともないよな、なんて思いましたので、かなりしつこいしバンドのブログに書くのは公私混同甚だしいわけですが、再々録させていただこうかな、なんて思った次第です。
以下、2008年7月15日にmixiに書いた文章を転載します。
「フール・オン・ザ・ヒル」
僕の通った高校は、丘の上にあった。
その校風を一言で表すと、「スポーツ校」である。
特に有名なのは男子バレー部で、全国大会にも何度か出場したことのある強豪であり、部員の多くは、県内一円から集められた精鋭たちだった。
このような学校だから、バレー部を頂点とした野球部、サッカー部などの運動部員が「輝ける青春」を送れるように、あらゆる行事や雰囲気が設計されていた。
家から近く、兄も通った学校ということで何も考えずに進学してしまったのだが、僕のような内向ロック少年には、最悪の環境だったといえるだろう。
スポーツは一定の水準を超えると、勉強に代わるものになり得る。
バレー部員のほとんどは、スポーツ推薦による進学を視野に入れていた。
彼らは好き嫌いや、肉体および精神の鍛練というレベルを超えて、人生を渡り歩くための具体的な武器としてバレーをやっていたのだと思う。
教師たちは彼らが授業中に居眠りしていようと、テストで無茶苦茶な点数をとろうと、基本的には不問に付した。
それでもバレー部員たちは、この学校の誰もが入れないような「いい大学」に進学するのが常だった。
僕はといえば、小・中学校時代の主力生徒としての振る舞いを高校進学を機に完全にうっちゃって、暗黒思春期仕様のガキに変貌していた。
中学までの僕を知っている連中は、帰宅部員を決め込み、少数の友達以外とはまったく口をきかなくなった姿に驚いたろう。
僕としては、やっと自分に正直にやっていくことができるようになった充実感を感じていた。
日々、さえない連中と体育会の奴らの悪態をつき、どっぷりとロック音楽にのめりこんでいった。
変な言い方だが、それなりに清々しく内向していたのだ。
それでも2年までは、同じように暗黒思春期を送る仲間が数名存在したこと、中学以来の釣り仲間であるHくん(彼はサッカー部で主力生徒だった)が適度にいじってくれたことなどもあって、浮いてはいたものの、なんとか周囲と折り合っていくことができた。
しかし、3年のクラス替えは本当に最悪だった。
数少ない友達は一人もおらず、体育会でももっとも目立つような連中ばかりが名を連ねていた。
さらにここで、特権階級であるバレー部員と初めて机を並べることになった。
僕は完璧に誰とも口をきかなくなり、オタクのMくんとともにクラス2大変人の座を占めるようになってしまった。
バレー部員と同じクラスになって、改めて彼らの特権ぶりを思い知らされた。
中でも最も格好よかったTくんなどは、休憩時間に女子を膝の上に載せたりしている始末。
女子とはまともに話したことすらない僕にとって、彼らはほとんどアメリカ人みたいに思えた。
最悪の高校3年の日々を送っていたある日、僕は体育の着替え中、バレー部のSくんが(おそらく)コーデュロイのTシャツを着ているのを目撃した。
コーデュロイとは、その当時流行っていたアシッド・ジャズのバンドで、トラットリアからアルバムを出しているような渋谷系洋楽である。
僕自身はそのバンドのリスナーではなかったが、この学校の連中は皆、B'zかZARDかマライヤ・キャリーを聴いているものと思い込んでいたので、少し驚きを感じた。
そして孤独な洋楽少年だった僕は、少しSくんに興味を抱くようになった。
この学校が最高の盛り上がりをむかえるのは、毎年6月に開催される文化祭である。
特に3年は最後ということもあり、クラス対抗の合唱コンクールに一致団結、全力投球するのがこの集団の不文律だった。
文化祭本番に向けて、放課後に練習が行われるようになった。
僕もさすがに無視を決め込むことができず、初回の練習には参加したように思う。
歌だけでなく振り付けもふんだんに盛り込んだ内容はもちろん、ひねくれた僕にはきわめて寒く、耐えられないものだった。
初回の練習が終わった後、これは偶然なのだが、なぜか僕とSくんだけが教室に残っていた。
僕は今までSくんと一度も話したことがなかったが、彼は照れ臭そうに僕に話しかけてきた。
「あれ、ほんとにやるんかなあ。恥ずかしいよなあ」
「そうじゃなあ」と軽く返したように思うが、バレー部員なら嬉々として参加するであろうと思い込んでいた僕は、彼の意外な反応に少しびっくりした。
その会話の流れで、彼に音楽の趣味などを聞いてみたいとも思ったが、こちらの照れもあってそれは聞けずじまいになってしまった。
僕はSくんを、他の体育会たちとはちょっと違うと思い、彼に好感のようなものを抱くようになった。
それから僕は練習をさぼり続け、結局文化祭の2日間は学校を休んだ。
文化祭が終わって学校に出た僕は、ますます自分が浮いた存在になっていることに気付いた。
その後7月になると、今度は球技大会(もちろん種目はバレー)が開催された。
あの文化祭が最後の花火だったんじゃないのかよ! 僕は怒りにも似た感情を覚えた。
平日の授業時間を潰して開かれる球技大会をさぼることは不可能で、僕は地獄の思いで参加することになった。
最悪なのは、バレー部3人を擁する僕のチームが順調に勝ち進み、決勝進出を果たしてしまったことだ。
僕は、全校生徒が見守る中で「女のような」しょぼいサーブを打ち、炎天下の中でへとへとになって、高校生活最悪の時を過ごした。
もう本当に、決定的に、僕は自分をこの学校の生徒とは思えないようになっていた。
最悪の高校3年1学期が終わると、僕は本当に救われたような気持ちになった。
夏休みに入るとすぐ、釣りに没頭した。
釣り場で無心にルアーを投げているときは、自分が自分であることに、何の違和感も感じずに済んだのだ。
終業式の日の午後かその翌日、僕は親父と国道182号を走り、岡山のとある池に向かっていた。
その時、高速のインターチェンジの近くで、わが高校のバレー部員たちが何人も乗った車に追い越された。
彼らは皆制服を着て、こわばった表情をしていた。
これから試合でもあるのだろうか? しかし夏休みに入り、大好きな釣りに出かける途中とあって、学期中は脅威に感じる彼らも、その時の僕にはどうでもいい存在だった。
その翌日、あれはたぶん午後一番くらいだったか、同じクラスのサッカー部のOくんから僕の家に電話がかかってきた。
Oくんは、「Sが死んだので明日葬式に来てほしいと」言った。
僕は「わかった」とだけ答えて電話を切った。
僕はすぐに、Oくんがふざけているのだろうと思った。
おそらくSくんをネタに皆を集め、クラス会でもやるつもりなんだろう。
まったくこいつらは、いつまで思い出づくりをやれば気が済むんだ!
しかし冷静に考えて、そんな嘘をついてまで、クラス2大変人の僕を誘い出す理由などどこにもなかった。
時間が経つにつれ、僕はOくんがふざけているのではないことがわかってきた。
僕はとりあえず自転車に乗って、家の近くの池に行き、湖面を眺めた。
次の日、指定された時間に、教えられた通りSくんの家に行くと、Sくんは本当に死んでいた。
一体何があったのか僕にはさっぱりわからなかったが、誰に話しかけることもできなかったので、伝え聞こえる情報だけを頼りに状況の把握に努めた。
ある人は、Sくんが山の中を走っていて、木に頭をぶつけたと言っていた。
ある人は、階段から落ちて頭を打ったと言っていた。
2日前僕が目撃したバレー部員たちは、Sくんの運び込まれた病院に向かう途中だったことは、とりあえず判明した。
葬式は、壮絶な空気に包まれていた。
その時までに僕は両祖父の葬式に出たことがあったが、そのいずれとも異なる、本当に重い葬式だった。
焼香の列に並び、Sくんの顔を見せてもらった。
そして僕は、ほかのクラスメートと同じように、思いきり泣いた。
それは悲しみというより、恐怖に耐え切れなくなっての涙だった。
自分の殻に閉じこもり、疎外感から自分勝手に絶望していた僕は、自分のことを本当に能天気で、お気楽で、世間知らずなただのクソガキにすぎないと思った。
高校生の自分にとって、死は最も遠いものの一つでしかなかったが、実際にSくんの死を目の当たりにして、死ぬことがこれほど身近で、これほどおそろしいものだということを、いやというほど思い知らされたのだ。
葬式でSくんの死因は、ただ「事故」とだけ伝えられた。
Sくんの葬式からしばらくして、全校登校日があった。
クラスの女子には、青白い顔をして呆然としている子もいた。
全校集会では、Sくんに黙とうが捧げられた。
ホームルームでは担任教師が、「今はみんながそれぞれの進路を実現するために最大限の努力をすることがSのためになる」と、よくわからないことを言った。
その夏僕は、まったくといっていいほど勉強せず、文庫本を引っ張り出しては、以前読んだ小説を読み返していた。
結局僕はすべての受験に失敗し、卒業後は浪人生活を送ることになった。
Sくんが亡くなった後、彼についての様々な話を耳にした。
彼が進路で悩んでいたこと。
東京の大学に進みたかったが、推薦要件に満たず焦っていたこと。
その他にもいろいろな噂が流れたが、どれも本当の話にも、誰かが勝手に作った話のようにも思えた。
今でもたまにSくんのことを思い出すのは、あのスポーツ校にあって疎外感を感じていた自分が、「この人はちょっと違うかもしれない」と思う人だったからに他ならない。
こんなことを言うのは傲慢だし、本当に自分勝手な言い分だと思うが、もしSくんと僕が友達になっていたらどうなっていただろう、と何度か思ったことがある。
彼にとっても、僕にとっても、お互い自分の周囲にはない種類の友情を築くことができていた、かもしれない。
もうひとつ思うのは、自分がなんとまぁ勝手で、お目出度いガキだったかということだ。
その頃僕が感じていた疎外感など、Sくんの感じていたことに比べれば、本当に取るに足らないことだ。
しかし僕の思いなど、どれも憶測にすぎない。
あの頃、Sくんをはじめとして、誰が、何を思いながらあの丘の上で高校生活を過ごしていたかなんて、ひとりよがりだった僕には、どうしたって理解できないことだ。
あれからもう、14年が経つのか。
少なくとも今の僕に言えることは、2つある。
誰かにレッテルを張って、その人を知ったつもりにならないこと。
何か感じるものがある人には自分からアクションを起こしてみる、つまり月並みな言い方だが、出会いを大切にすること。
この2つをできるだけ肝に銘じてやっていくことだ。