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布団あります まくらことば活動日記

歌ものロック/ポップスバンド、まくらことばのブログです。

名前に関するとりとめのない話

おはようございます、さとまくらです。
今朝はこの季節らしい冷え込みが気持ちいいですね。
bonobosの「もうじき冬が来る」は冬の到来に向けた高揚感を歌った曲ですが、「姿を変え続ける秋の日差しのなか/隠れてたあのメロディ呼び覚ます」というところなんか、冬の好きな私にとってはかなりぐっときますね。
これから年末に向けて街はせわしなくなるいっぽうで、静謐な――それこそしんしんと降る雪を眺めながらこたつでみかんを食べるような冬は、お正月が明けてからやっと到来するのでしょうが、日増しに冷え込んでくる晩秋から初冬の街に出て行く朝は、いつも背筋が伸びるような気になるものです。

さて、昨夜はADのお店で恒例の竿モノ練習が行われました。
スタジオでのバンド練習ではなかなかフォローできない細かい部分のおさらいや調整を行ったのですが、次回のバンド練習に向けた課題も見つかり、有意義な時間だったと思います。
練習後、先日バンド名を“香具師ズ”にしたらどうかとご提案いただいた話題になり、まぁ香具師ズはさておき、バンド名って大事だよねというハナシに。
ただ、かっこいいバンド名というのは存在しなくて、かっこいいことをやっているので名前もかっこよく聞こえるようになるのだろう、つまり名前って後から付いてくるモンだよね、みたいな結論になりました。
たしかに「フリッパーズ・ギター」と聞けば、我々は即座にあの圧倒的に洒落のめしたイメージを想起するのですが、もしフリッパーズの音楽がBAKU的な学園青春パンクだったとしたら、「いかにも元気そうなバンド名だよね」とか言っているような気がします。
つまり「名は体を表す」のは事実なんだけど、「体があってはじめて名のイメージが決まる」という順序で両者の関係は出来あがるらしく、それでもいつからか両者が合致して後戻りできないくらいにイメージが固定していく、そんな「名と体の関係」なんだろうなと。
そういえばスピッツに「名前をつけてやる」という曲がありましたが、名前をつけることの重大さに加え、名付けという行為に伴う暴力性とかエロスまで感じさせるこの歌は、やっぱり詩人マサムネじゃないと書けないなぁと思いますねぇ。

「名前をつける」という行為に思いを巡らせるたびに、私には必ず思い出すエピソードがあります。
それは1960年代、広告代理店の電通が考えたとされる「過激派」という名前と、それにまつわる権力の情報戦略です。
過激派とは、当時隆盛を極めていた(とされる)新左翼運動に従事する者たちを、文字通り十把一絡げにするために編み出された言葉で、英語のextremistの訳語として考え出されたといいます。
一説ではこの訳語の考案に対し、国は当時で3億円の対価を電通に支払ったとも。
このたった一言の考案に巨額の対価が支払われたことの意味を考えると、「名前をつけてやる」ことの重大性と効果を当時の権力者とビジネス界のトップランナーが十二分に把握していたことがうかがえ、私は、「そりゃ、革命だのなんだの叫んでる連中は勝てっこないわな」と深く唸る思いを抱きます。

1960年代の後半、もっと正確には1972年に連合赤軍事件の全貌が明らかにされるまで、世間には、学生運動およびそれを担う新左翼勢力に対して同情的な気分があったと聞きます。
それは、彼らの叫ぶ革命思想に共感してというものではなく、「権力と闘うなんて、最近の若いモンもなかなか気骨があるじゃないか」程度の大衆感情でした。
国家権力および警察権力にとってはこの大衆感情こそが真の脅威であり、逆に言えば大衆心理を反転させさえすれば、この国の反体制運動などすぐに終息に向かうと踏んでいたのでしょう。
そこで権力と電通がタッグを組んで考えだした言葉が「過激派」で、連中の細かい主義主張や出自の違いを全部すっ飛ばして、「反社会的な連中」とひとくくりにする名前を考えだしたわけです。
さらに警察権力は、連合赤軍事件の全貌について、あさま山荘立てこもりの段階においてすでに“同志殺し”まで把握していたらしいのですが、あえて発表を遅らせる情報戦略をとりました。
あさま山荘事件の中継が歴史的な視聴率を記録したことに顕著なように、山荘にたった数人でたてこもって巨大な権力と闘う若者に、国民の少なくない割合の人が同情、もっといえば応援するような気持で見守っていたといいます。
警察側には殉職者も出ているというのに、連中を殺さずに生きたまま確保したのも、彼らを英雄に仕立て上げる意図があったのかもしれません。
そして派手なクライマックスシーンが終わった後、今度は連中が行ってきた同志殺しの情報を次々に発表し、世間の同情的な感情を一気に冷却するばかりか、反社会的なとんでもない連中という印象を植え付けるのに成功します。
持ち上げてから一気に落とす――現在も芸能マスコミなどで多くみられるこの情報戦略の最たるものが、ここで行われていたわけです。
これ以降「過激派」という言葉は完璧に、反社会的なわけのわからないことを喚くイカレた人たちを表すレッテルとして機能し始め、現在に至るまでの左翼勢力の凋落をみれば、この戦略が奏功したことは歴史的に証明されているでしょう。

私はこの一連のプロセスを知った時、本当に唖然としたし、深く感心したものです。
私は歴史的評価においても今現在の政治的傾向としても、左翼的な集団に一切のシンパシーを抱くものではありませんし、同様に保守を自認して左翼に敵意を抱くものでもありません(あえて言えば、生活に必死で“アンポ”の意味すら知らなかったというつげ義春の生き方が好きです)。
なのでこのエピソードを、プロ市民みたく「権力の情報操作、世論誘導だ! 断固許さない!」とか喚き立てるために持ち出したのではありません。
ただただ、「名前をつける」という行為の威力の凄さについて、言葉を失うくらいに思い知らされるとともに、その威力について、国を動かすような人たちはやっぱり知り尽くしているんだ、はぁー、と感心するだけです。

脱線が長くなりました。
要は、「まくらことば」って名前も、これからの自分たちのやること次第でどうにでも響いてくるし、同時に、これは完全にコントロール不能な領域なのですが、もうこの名前を付けてしまった時点で何がしかのイメージとそれに基づくストーリーが起動しているんだろうな、ということなんです。
幸い、私はこのバンド、いい名前をいただいたと思っておりますので、「まくらことば」と聞いた方が少しでも素敵な音楽を思い浮かべて下さるようにしなきゃね、って話です。