秋のかぞえ方、冬の訪れ方
こんばんは。 吹雪です。お久しぶりです。
キョウスケス・サトス(紀元前427-347年)が最近あまりにも書きすぎなので水を差すために登場しました。ちなみにブログオタク化禁止令が出ていますので、その辺はできるだけ自粛します。オタな皆様、ごめんなさい。
ところで、私は違和感というか、クエスチョンマークを体で感じると、納得するまで気になってしまう(そしてしつこく聞いて困らせる)、残念な闇属性を持っているのですが、小学校の時にとにかくわからなくて悩んでいた、とある感覚がありました。それは、「花を見て美しいという大人」であり、「その感想の正体」でした。
今は、こころから「美しい」と思えるものがいくつかありますが、当時はおいしいとか、うるさいとか、そういったことはすぐにわかるけれども、美しいというのは感じることができなくて不思議でたまりませんでした。音楽に引き込まれて身動きができなくなり、涙が止まらなくなるというのはありましたが、そういった感動は、憂鬱になって元気になるまでしばらくかかり、自分にとってはもう二度と立ち直れなくなるとさえ感じて、とても怖いものでした。音楽とは美しいものではなく、異世界を見せつけられる、怖いけれど凄いものだったのです。
花の美しさがわからないという悩みは中学が終わるころまで続き、時間がたつにつれ大きなテーマになっていました。そのころ、月下美人、クジャクサボテン、バラ、胡蝶蘭、夏咲テンジクアオイ、ベゴニア、ゼラニウムなどをおこづかいをはたいて買いに行き、せっせと水をやったものです。夏に初めて月下美人が咲いた時は興奮しましたが(焼酎に付けて今もあります)、どうしても、よそゆきの褒め方しかできません。
「花」をテーマにしていた時、国語の先生が何気なく教えてくれた話がとても心に残りました。中原中也と小林秀雄が桜を見に行った話です。小林秀雄が桜の花を見て、その花は散っているのではなく、散らせているのだ、ということをふと思い、その美しい精緻さに耐えきれなくなったとき、中原がもういいよ、かえろう、と言うシーンです。
何かがつかめる気がして、中原中也と小林秀雄を耽読しましたが、わからないままでした。
実際に美しいと感じ、美しさの感覚とは、自然界の対象に自分のことばで真理を認めた時の感動のことだと確信したのはもう少し後でした。ちなみに私にとってそのとき美しいと感じたものは、降る雪とパンジーでした。
さて、実はここまでが長い前ふりで、ここからタイトルの記事を書きます。
中原の在りし日の歌だったと思うのですが、ひと雨ごとに秋になると人はいふ、という一文がとても気に入っています。雨が降らなければ夏は続くという期待と、少しずつ薄れてゆく夏の底力、秋のしおらしさを感じて、夏休み大好きな私にはたまらなかったのです。
じゃあ、冬はどのタイミングで冬になるのかと気になり、学校に行く途中の並木の葉が全部落ちたら冬になったと考えよう、毎日見てみよう、と思いつきました。
その次の日。役所のおっちゃんたちが私の楽しみなど露知らず、ばっさばっさと並木の枝を切り落とし、夕方には丸裸になってすっかり「冬」になっていたわけです。
なんともまあ、冬の訪れは厳しいものだと思いました。
これから冬になり、いよいよライブがあるわけですが、やたらと「今回の練習でうまくいくかどうかすべてがわかる!!」など言いだし、玉砕精神で思いつめるあぶなっかしい狂の暴走を諫めていると、冬の厳しさもまぎれる気がするのでした。