布団あります まくらことば活動日記

歌ものロック/ポップスバンド、まくらことばのブログです。

舟を漕ぎだすひと

どんよりとした空のもと台風の到来に戦々恐々とする今週、いかがお過ごしでしょうか、こんばんは、サトー@まくらことばです。

 

昨夜は久々の(と私には感じられた)スタジオ練習@下北沢でした。
この1週間、我々はかつてないほど練習に取り組みました。
15日は竿練、17日は吹雪×サトー練、19日はまた竿練、そんでもっての昨夜。
いやぁ、いつからこんなに練習熱心なバンドになったんでしょうね。
でもこのペースで練習してても次の練習が待ち遠しくなるのは、きっと楽しいからなんでしょう。

 

昨夜は6曲を練習したのですが、考えてみれば未発表曲(まぁ全曲そうなんですが)「灯台守」をバンドで合わせたのは初めてでした。
この「灯台守」という曲、ゆさADは「一番好き」と言っておりますし、私も昨日合わせてみて改めていい曲だなと思った次第で。
名曲揃いの(だって事実だからしょうがないじゃん)まくらナンバーにあって、ひょっとしたら一番いい曲なんじゃないかとも思われる傑作なんですねぇ、これが。
みなさまには思いっきり期待していただいてよろしいかと。

 

さて唐突ですが、みなさんは「グッド・ウィル・ハンティング」という映画をご存じでしょうか。
1997年公開のアメリカ映画で、監督は「ミルク」なんかでもおなじみのガス・ヴァン・サント、主演と脚本は若き日のマット・デイモンという作品です。
私ねぇ、この映画すんごい好きで、後からどんなにいい映画を観ても、これが「生涯の5本」の座を外れたことがないんですね。
主人公のウィル(マット・デイモン)は街のごろつきみたいな何者でもない若者なんですが、超人的な知能の持ち主で、図書館で借りた本を読んでるだけなんだけど歴史論議でハーヴァードの学生を論破したり、MITの教授が解けない数学の問題を解いてみたりと、ちょっと次元の違う天才なんですね。
でもウィルは、人生に苦悩するただの若者でしかない等身大の自分と天才である自分の折り合いをうまくつけることができず、無為の日々を過ごして、何かに熱くなることを回避する冷笑的な態度を貫いているんです。
そんなウィルの才能を開花させようとした周囲の人間が、彼が心を開くようにとカウンセリングを受けさせようとします。
このカウンセリングの相手が、しがない心理学者のショーン(ロビン・ウィリアムス)なんですが、これがウィルの人生にとって決定的な出会いになっていくと。

 

……まぁ詳しくは映画を観ていただくとして、最初にウィルとショーンが出会ったシーンで、ショーンが描いた一枚の絵が登場するんです。
波高く荒れた海を、小さな手漕ぎボートで漂う一人の男。
色づかいもなんだか暗くて、舟を漕ぐ彼の孤独や不安が痛いくらいに伝わってくる絵なんですね。
ショーンの研究室に飾られたこの絵を目ざとく発見したウィルは、心理学者のお株を奪うように、この絵を描いたショーンの心理状態を分析してみせます。
それはもう、少しも否定しようがないくらいに鋭く正鵠を得たもので、ショーンも静かに「その通り」と認めながら動揺を隠すことができません。
物語は結局、このシーンとは逆にショーンがウィルの心の一番深いところに触れるクライマックスに向かっていくのですが、ウィル同様、メンターであるショーンも深い心の傷を抱えて迷いながら生きている人間として描かれているのが、この映画の素晴らしいところなのだと思います。

 

私にとってもこの絵は非常に印象深いもので、映画の記憶とともに、折に触れて思い出したりします。
それはどんな時か――自分の道を黙々とひたすらに歩んでいる、周囲の雑音に時には惑わされながらも足を動かすことを決して止めない、そういう生き方の人に出会うたびに、私はこの絵を思い出すのです。

 

自分にとって本当に、一番大切なことをやろうとするときって、それこそ、同じ車にみんなで乗り込んで音楽を口ずさみながら……なんて感じとはちょっと違うと思うんです。
行くべきコースは決して明瞭でなく、一人で不安に呑み込まれそうになりながら進んでいく、まさに「グッド・ウィル・ハンティング」のあの絵のように、大海原をボートで一人漕ぎ進むような感じじゃないかと思います。
そしてそれは、あの青春という残酷な時間において、ある程度、誰もが経験することだと思うんです。
ただ、彷徨をともなう自己探求ってやっぱりキツいことだから、若さという特権が有効期間であるうちに済ませておいて、あとは平穏無事に生きていくことを多くの人は望む。
私はそれを悪いことだとは思っていなくて、一人じゃなくて一緒に進んでいくことのできる仲間を見つけることも大切だと思うし、現にいま自分もそうしてるし。

 

でもね。
イエモンの「So Young」じゃないけど“終わりのない青春”を選んで、大海原にひとり小舟で漕ぎだすことを止めない人もいるんですよね。
もちろんその人は仲間を見つけられなかったとかではまったくなくて、むしろ素晴らしい人に囲まれていたりするんだけど、でもやっぱり、何かに背を向けて一人で行くことを選ぶ、選び続ける、そんな人がいる。
そういう生き方って往々にして、これまた「So Young」の歌詞のごとく“絶望の波にのまれる”ようになっちゃう。
それでもやっぱり、自分は舟をださずにはいられないんだという思いがすごく伝わってくる――そういう人に会うと私、「お前はどうなんだ」って問われてるような、背筋の伸びる思いがするんです。
自分はやっぱり、そういう生き方を長い間繰り返すことはできなかったので。
そのことに後悔とかはないけど、今も一人で舟を漕ぎだすことを止めない人、若き日にいささかの性急さでもって選んだ何かに自分を投企し続けるような人――その行為が結果を出していようがいまいが――そんな人に対する尊敬の念というか、ほんの少しの後ろめたさというか、そういうものが自分の中にあったりします。

 

……話は戻ります。
「灯台守」の詞はかなりフィクショナルでほとんど無意識に書いたものですが、私は自分自身をどうも、一人で海に舟を漕ぎだすタイプというよりは、灯台にいて港で待っているタイプの人間なんじゃないか、なんて思うんです。
もちろん「灯台守」は自分のことを歌ったものではないし、人はそれぞれの場面において旅人だったり灯台守だったりもするのですが、基本的には港にいて旅人を見送ったり帰りを待っているほうなんだろうなおれは、なんてことを思ったりします。

 

昨日スタジオで「灯台守」を歌いながら、なんかうまく言えないんだけど、まくらことばってバンドは、大海原を小舟で漂うような人にとって灯台のような存在でありたいなって思ったんです。
僕たちは小舟で荒れた真っ暗な海に漕ぎだす人に対して、「危ないからやめときなよ」とか「いいかげん落ち着けよ」とか、はたまた「おれも一緒に行こうか?」とか、そんなふうに言うことなんてできない。できっこない。
だけど旅人がいつでも帰ってこられるように港の灯りはつけておくとか、鍵は開けたままにしておくとか、温かいスープを用意しておくことならできるって思うんです。
そういう思いを込めた歌が、「灯台守」なんじゃないかって。
もちろん僕らも時にはそれぞれが小舟に乗って海に出なきゃ、って時もあると思うのですが、まくらことばっていう灯台はいつでも明りを灯していて、扉の鍵も開けてある、そんな場所でありたいと思っています。

 

……なぜこんなことを思ったのか。

それは昨日私の隣で一生懸命弾いていたギタリストが、私の勝手な想像にすぎないんだけど、大海原に小舟で漕ぎだす旅人に見えたからです。
ああ、あの「グッド・ウィル・ハンティング」に出て来る絵のような、舟を漕いでいる人がここにいるじゃないかって、実は歌いながらずっと思っていたんです。
私は彼女のこれまでの人生を根掘り葉掘り聞いたわけではありませんが(ホントはちょっと聞きたい)、彼女がこれまでも、そして今も、オールしかない小舟で海に漕ぎだしているような人だってことは、なんとなく感じていたから。

 

彼女は今サポートというかたちでまくらことばを手伝ってくれているわけですが、僕らにとってみればメンバーに正式もサポートもなくて。
特にあけみさんがこのバンドに馴染んでくればくるほど、この4人でまくらことばなんだって思いが、日々強くなってきているんです。
もうね、あけみさんは単なるプレーヤーじゃなくて、なんて言うか彼女の生き様がバンドに溶け込んで、他に2つとないまくらことばの個性になっているような気がしてならない。

でも、彼女にはやっぱり自分の曲を演奏するバンドが必要だろうし、それこそが彼女の本拠地なんだろうということも、僕らは分かっているつもりです。
だから、今はライブに向かってひたすら練習を重ねるだけですが、その後、彼女とまくらことばの関係がどのようになっていくのか、それは誰にもわからない。
それはあけみさん自身の意思とか自然な流れが辿りつく先のことであって、少なくとも私なんかが決めることじゃない。

 

ただどんなふうになっても、これだけはあけみさんに覚えていてほしいんです。
もし君が舟を漕いでいて進むべき方向が見えなくなったり、嵐が来て一時退避する必要があるときは、いつでも、まくらことばがともす灯台に戻ってくればいい。
ここに来れば仲間がいるし、みんな旅人が何を見て来たかって話を聞きたがっているし、もう一度海に漕ぎだすための準備だってできる。
「灯台守」って曲は君と出会う前に作ったものだけど、どうやら君のための歌なんだって気がしてならないんだよ、だって僕らの君に対する思いがそのまま歌われているんだもの。

 

なんだかまくらことばは、いろんな人のいろんなストーリーが交錯する場所になってきた気がするし、これからもっとそういうふうになっていく気がします。
私が長い間やりたかったバンドはこういうバンドだったんだと、噛みしめるようなスタジオ練習の夜でした。