傾くものたちの系譜学——歌舞伎・千秋楽・中村七之助、そしてヴィジュアル系
こんばんは。吹雪です。
V系なのをひとつよろしく(?)ということなのでがんばるお。
昨日、京都から遊びにきてくれた友人と歌舞伎を見てきました。
ちなみに演目はコレ。(ホームページから拝借)
第一部
新版歌祭文
一、野崎村(のざきむら)
お光 | 福 助 |
久松 | 扇 雀 |
お染 | 七之助 |
久作 | 彌十郎 |
後家お常 | 東 蔵 |
二、新歌舞伎十八番の内 春興鏡獅子(しゅんきょうかがみじし)
【2日~13日】 | |
小姓弥生後に獅子の精 | 勘九郎 |
【14日~24日】 | |
小姓弥生後に獅子の精 | 七之助 |
胡蝶の精 | 虎之介 |
胡蝶の精 | 鶴 松 |
用人関口十太夫 | 宗之助 |
家老渋井五左衛門 | 由次郎 |
始めて見たけどすごくよかった。
認識能力が沸騰して泣いてしまった。
泣いたかどうかなんてくだらないけど、感動しすぎて泣いてしまった。
私の感性うんぬんが言いたいのではなく、福助、七之助がすごかった。みんなすごかった。
いや、歌舞伎そのものの力がすごかった。もう一回見たい。足りない。
映画を見ると、自然な演技を評価したくなる。
演技を感じさせない演技に、迫真性を感じる。
それはそれで最高。
歌舞伎は、自然な演技をしない。しゃべり方もしない。
テレビで見たこと聴いたことがあった。独自の振る舞いが正直、かったるかった。
だがライブを体験すると全く違った。コレダ!! と思った。
三味線が物語の時間と空間を表現し、演技はその時空形式と一体になっているのがわかる。
間延びしたセリフによる、絶妙な間の取り方が、感情表現に真実性をもたらしているのもわかる。わざとらしさなんてものは微塵もない。
客の反応をつかみながら舞台を作っていく繊細な雰囲気があって、映像では共有できない。
こういった「不自然」な作法のひとつひとつに型があり、それが極限まで極められて、驚嘆を引き出す。
驚嘆は、傾く不自然な過剰さが結びつく必然的な境地なのか。
ひとは感動しないと納得しない。
それゆえ、心揺さぶられる過剰の場では、感情の説明を受け取ったのではなく、感情そのものを受け取ったような気分になる。
感情移入とは異なる率直さがそこにはある。
身の上話を聴くようなこととは違う。
厳密な意味での共感はない。人間の本質を目の当たりにし、それを飲み込んでしまった感動があるのだ。
強引なのかもしれない。しかし、強引に感動させる力こそ美しい。
そう考えてみると、過剰で不自然な表現によってこそ可能な唯一のものがありそうだと思う。
いったいそれはなんだろう。
例えばピアノの超絶技巧とは異なるのだろうか。
天才は確かに、傾くものの系譜に連なる。
でも、その驚嘆は「鏡獅子」の驚嘆と同じだろう。
ダンスの超絶技巧や、手品やサーカスの驚嘆、
いわゆる天才の技は、「鏡獅子」の驚嘆と同じなのだろう。
問題なのは、「野崎村」と同じ驚嘆を、他の芸術が作り出すことができるかだ。
過剰な不自然が、音楽や言語や身体を止揚していく力学を発動させるとして、
この過剰の遺伝子を受け継いでいるものは、今現在あるのだろうか。
歌舞伎とヴィジュアル系の共通性はよく指摘される。
化粧や女形の存在だけではない。
ヴィジュアル系も、歌舞伎役者と同じくらい、不道徳的で、
技術追求型で、確かに傾くものたちの集団だ。
天才の技としての傾くものだけでなく、社会的な傾くものとしても共通している。
だが、まだV系がもつ表現は、せいぜい「V系らしい世界観」を表しているにすぎない。
同じ土壌があるのであれば、「不自然な過剰」が正しく発動するまで、鍛え上げればいい。
とはいえ、V系が持つ「不自然な過剰」とは、いったいなんだろうか。
アウトサイダーだからこそ持ち得る、だれもが驚いてしまう振る舞い。
そこから生み出される、驚嘆を伴う表現。
そこに込められた、人間本質を鋭くえぐり出す芸。
ところで、これまで述べてきた驚嘆・感動の状態について、雑だがこんなふうに分類できるかもしれない。
- 不自然:天才型:外部からの物質性を中心とした強引な感動
- 不自然:言語型:外部からの本質の直感を中心とした強引な感動
- 自然:天才型:自分からの共感を中心とした感動
- 自然:言語型:自分の理解を中心とした感動
例えば、ドストエフスキーの小説が自分にとって重要だということは、4に該当するのだろう。だが、それを書いたドストエフスキーの天才に関しては、1に対応するのだろう。映画の演技などは3に該当するだろうか。そして2に該当するのが、野崎村の歌舞伎的表現ということになるだろうか。
音楽は、超絶技巧はともかくとして、情感的内容を直感的に理解するということで、2か4に該当するのだろう。
2と4の差すなわち音楽における不自然と自然の差、過剰と非過剰の差は、質的な差ではなく、カテゴリー的な差、使用する認識能力が異なることとならないだろうか。
そうだとするなら、ビジュアル系が目指すべき表現は、その認識の能力に適応したものでないと、十分に発揮できないことになる。
その認識能力とはまさに、「不自然な言語能力」ではないだろうか。
テキストとその伝達の手段を再検討する必要があるのではないだろうか。
すっかりおそくなってしまったのでこのへんで。長文すみませんでした。
おやすみなさい。