夏から来た道
どうもお久しぶりです。吹雪です。
ドラムの話も音楽もさておき、今日は、わあ、とか感じることの話を。
夏の夏らしさって、何だろうって、思うと同時に、
こういったことを問いたくなる感じがして、
うむ、夏は特別である、とか思いながら生きてきたわけです。
今日は秋みたいに涼しいし、蝉の声もまだ聴いてないけど。
どっかの小説家が、夏のことを、熟れすぎた果実みたい、とか言っていたんですけど、
なんか夏休みの宿題やっていない小学生が感じる「終わり」の寂寥感みたいで、
ちょっとそれだけでおしまいにするには正確じゃない気がしたんです。
私なりに考えてみたんですけど、きっと、夏の夏らしいところは、
ずっとまっすぐに続く道が、泣きたいほど感動的に見える季節だからかもしれないところにあるのではないかと。
田舎に帰って、車で田んぼ道を行くと、海までまっすぐに続く道がある。
焼けついてしろっぽくなってゆらゆらした道が、
青い空と入道雲と、鏡のように青空を移した海、境界のない海に、
道が吸い込まれていって、ずっと遠くのいちばん先は見えない。
そういった道が田舎にはいくつもあって、
車を走らせて、すれ違いながら、道を見つめて通り過ぎていくと、
ああ、夏だなあって思うんです。
ちょっと話は違うけど、ずっとまっすぐ続く道は、人類の発明の中でも最も偉大なものかもしれない、って思うんですよ。
見ているだけで安心できるし、説教臭くなく受け取れる何かがあると。
まあ、そんなことはともかく。
でも、夏には、自分の出来事と、運命が重なったような「道」の感覚を感じると同時に、やっぱり「終わり」の感覚も確かにあるなと思うんです。
いつも不思議だなあ、と思うし、正確に表現できないけど、
木々は光り漏らさぬようにその手を広げているけど、
こぼれ落ちていくのは、光だけじゃなくて。
蝉の声のように、命がこぼれ落ちていくこの感覚は、夏の本質なのかもしれないと思うんです。
だからこそ、こぼれ落ちる光に、照らされた道が見えることの幸福を感じた1日でした。
狂介と、デモのCDを聴いた夜、お酒片手に。 吹雪