私のゼロ年代
おはようございます。
今朝は久々にハードな腹痛に脂汗をかいたまくらことばのサトーです。
仕事前にちょっと音楽の話をさせてくれや。
個人的な話で恐縮ですが、私のゼロ年代はわりと空白の時間というか、90年代およびここ数年の「本拠地感」とくらべると、「どっかに行ってた」ような時間でした。
まぁそれはそれで長い人生の中で何がしかの意味を持つ(と思いたい)んだろうけど、それこそギターなんてこれっぽっちも触らない時間だったのです。
そんなゼロ年代、私が間違いなく一番聴いたレコードは、ハイラマズの「ギデオン・ゲイ」だったと思います。
いや、これねぇ、やっぱりすごいレコードなんですよ。
何が言いたいかと申しますと、ハイラマズってわりと「記号」で語られがちなバンドだと思うんですね。
やれポストロックだ、音響派だ、チルアウトだ、ビーチボーイズの再来だといろいろと。
そうした記号のどれもが、確かにハイラマズの音楽性とか立ち位置を表していると思うんだけど、それによって「はいはい、それ系のバンドね」となっちゃうのがどうしても悔しいというか歯がゆいというか。
うん、「ギデオン・ゲイ」は確かにビーチボーイズの未完の(まぁ完成したけどね)傑作「Smile」を、ブライアン・ウイルソンでなくショーン・オヘイガンが仕立てたような作品なんだけど、これはねぇ、もうそういうの抜きですごい音楽としかいいようがないんですわ。
今はYouTubeがあるからどんな音なのかは駄文を費やすよりは聴いてくださいってことで端折りますが、とにかくこのアルバムをヘッドホンで聴くということは、音楽体験として至上の部類に入ることなんです。
なんだけどこれ、本物じゃない。あくまでフェイク、なんか書き割りの町並みみたいな音楽なんですね。
そこが素晴らしいというか、天才ブライアンが成し遂げられなかった(まぁ完成したが)偉業を、批評の人であるショーン・オヘイガンが達成していることに音楽の魔法を感じるわけです。
そう、ショーン・オヘイガンはナチュラル・ボーン・ミュージシャンじゃなくて、重度のリスナーをこじらせて音楽家になったタイプ。
この神がかり的なアルバムが、天才の所業ではなく、(センスは抜群だけど)普通の人によって作られたことに私はひたすら感動するし、自分が迷走していた時期に繰り返し聴いていたのもそのあたりに理由があるかもしれません。
ちなみに「ギデオン・ゲイ」が発表されたのは1993年。
当時のロッキンオン誌をめくってみると、「心の沐浴」というキャッチコピーで国内盤の広告が出ていました。レビューではレコード会社の資料みたいな、通り一遍のことが書いてあるだけ。
まぁでも、「ギデオン・ゲイ」の魅力の本質はフェイクであることにあるわけで、歴史的名盤!って騒ぎ立てるのも違うから、そんな扱いでよかったのかも。