布団あります まくらことば活動日記

歌ものロック/ポップスバンド、まくらことばのブログです。

改めて、「サンタ・バーバラ」

ハイラマズというバンドがすごく好きで、ちょっとでも話ができそうな場所があれば「ハイラマズってさぁ……!」と意気込むのですが、どうも話が噛みあわないことが多い、と気づいてから早幾年。

原因は、だいたいハイラマズ好きな人が好むのがアルバム「ハワイ」以降の「コールド・アンド・バウンシー」「スノーバグ」「バルズ・ビー」あたりに集中していて、私が好きなのはその前の時期の「ギデオン・ゲイ」(1994)であり、さらに前の「サンタ・バーバラ」(1992)の2枚であるから、という結論にいつだったか至ったのでした。

これは単純に入り口の問題で、渋谷系とかシカゴ音響派の流れでハイラマズにたどり着いた人は98~2000年あたりの3枚に、ビーチボーイズ経由で「なんかスマイルの現代版みたいのがあるらしい」とたどり着いたのが「ギデオン・ゲイ」前後に、ということになるのでしょう。

 

「ギデオン・ゲイ」と「サンタ・バーバラ」、この2枚のアルバムの作風は全く異なっていますが、私にとっては、スティーリー・ダンの「エイジャ」と「ガウチョ」のようなニコイチの大名盤という位置づけで、「ギデオン~」を聴けば「サンタ~」が聴きたくなり、その逆も然りという関係にあります。

ショーン・オヘイガンの才能が炸裂するのは「ギデオン・ゲイ」以降という評価が大半なのですが、いやいやどうして、「サンタ・バーバラ」の時点で、ショーンの才能は開花していました。

これはハイラマズの事実上のファーストであるショーンのソロアルバム「ハイラマズ」を聴けば明らかで、方法論的にはほとんど同じギターポップの文法に則ったサウンドながら、「サンタ~」では長足の進歩を遂げているのです。

「サンタ・バーバラ」がリリースされた92年当時のイギリスは、マンチェ後・ブリットポップ前夜という感じでしたが、歴史的に見てもムーブメント主導であるUKシーンの中で、当時のハイラマズが、どこにも収まらない極めて地味な存在であったことは想像に難くありません。

もしムーブメント文脈で「サンタ・バーバラ」を評するなら、80年代ギターポップの残党がちょっと大人っぽい作風を身に着けてリリースした佳作、といった感じでしょうか。

 

実際、「ギデオン・ゲイ」のすごさについてはいくらでも表現方法が思いつくのですが、「サンタ・バーバラ」がいかに素晴らしいアルバムであるかについては第三者に説明するのが非常に難しく、まるで野心のないジャケットデザインとも相まって、レコメンド困難物件として地味ぃに歴史に収まっているように思えます。

私は「サンタ・バーバラ」を初めて聴いた20代初頭から間断なく聴き続けていて、それはマイブームとかとも無縁の、ホントにずーっとコンスタントに聴いてる感じなので、結果的にこれまでで最も回数を聴いたのはこのアルバムなんじゃないかと最近では思うようになりました。

最初の一音から最後の一音まで一切の無駄がなく、どの音も聞き逃したくないとまで思えるアルバムという意味では、前述のスティーリー・ダンの2枚と比肩する作品と言ってもいいと思います。

何とも表現しがたい「サンタ・バーバラ」の素晴らしさを可視化するため、少し挑発的な物言いをしてみると、まず曲の良さで言えば、全盛期のオアシスよりずっと上だと個人的には思います。

それから演奏で言えば、サウンドメイキングまで総合的に含めて見ると、方向性は全く違いますがレディオヘッドと互角ではないかと思います。

そして詞の作品性について言えば、アズテック・カメラやスミスといったバンドの系譜にあると言ってもいいのではないでしょうか。

 

もう少し細かい話をすると、私の理想とするエレキギターの音が「サンタ・バーバラ」にはいっぱい詰まっています。

私がエレキギターという楽器で一番美しいと思うのは、ひずみが生じる少し手前の、倍音がたっぷり含まれたクリーントーンで鳴らされるコードの響きなのですが、そういったギターサウンドの宝庫がこのアルバムです。

そのクリーントーンには、トレモロなど微妙な揺らしものエフェクトが掛けられているのもすごくセンスが良くて、歪ませる時には位相変えて奥の方で鳴っているようにしてみたりと、とにかくギターの音作りが非常に凝っている。

「ギデオン・ゲイ」以降はカントリータッチのフレーズが増えてくるショーンのギターですが、この段階では意外に王道ロック的な、例えばキース・リチャーズ風のリフやコード弾きも垣間見えて、でも上手に臭みを消してて、とにかくギタリスト目線で聴いても発見が多いのです。

 

 あと50年経ったとき、「ギデオン・ゲイ」の名声は確実に残っていると思うのですが、「ギデオン~」が傑作なだけにその前作「サンタ・バーバラ」は忘れられているような気がして、何とも歯がゆい気持ちになります。

「別にお前が好きならそれでいいじゃん」と言われればその通りなのですが、「サンタ・バーバラ」だけはそれで済まない、済ませたくないのだよ。

アルバムの中でも特に好きな曲「The Taximan’s Daughter」を最後に貼って、全然まとまりのないこの話を終わりにします。

現実と幻想

昨日ですか、洗濯物をたたみながらヴァン・ダイク・パークスの『ソングサイクル』を聴いていたんですが、今までわけわからん音楽としか聞こえなかったこのアルバムが、急に「いいじゃん!」と思えるようになったんです。

なんかそれまではヴァン・ダイクってドラッギー・ミュージックっていうか、「この人キメてんのかな」みたいな、そういうの好きじゃないんだよなぁみたいな印象しかなかったのですが、昨日は全然そんなことなくて、ああ、これは正気の人間が作ったきわめて知的な音楽なんだ、と。

ようやく。

 

二元論は非常に危険と戒めつつやっぱり話が通りやすいので適用していくと、芸術のモチーフとは、ざっくり「現実」と「幻想」の2つに分けられるとします。

私はいままで、幻想ってやつは現実をより正確にとらえるための方法論であって、あくまで現実をどう切り取っていくかが芸術であろうと思ってきたフシがある。

方法論はなんでもいいんですが、最終的なアウトプットを測定する度量衡としては、「どんだけリアルか」を採用してきたように思います。

しかし、いろいろな表現に触れていくなかで、現実に帰着しない幻想があってもいいんじゃないか、幻想そのものが表現対象であってもその作品の良し悪しには関係ないんじゃないか、そう思うようになってきました。

現実と幻想の相関関係ってのも一筋縄ではいかなくて、どちらかが手段でどちらかが目的と役割分担されているわけでもなく、お互いにフリーポジションで構わない。

ただ、人間の作るものだから、すべての幻想の出発点は現実にあるというのは間違いないし、言葉とか音楽といった「科学」を使わざるを得ないところからも、やっぱり母はいつでも現実だろう。

でも、いざ作品の中においては、そこに主従関係などなくてもいいと思うようになってきたのです。

 

そういう感覚で「ソングサイクル」に接すると、これは架空の映画のサントラみたいなものなのかなと。

「ソングサイクル」がリリースされたのは1968年、つまりポップカルチャーが完全に開花した時代の作品ですが、同時代の作品にはあまり見られない、どこかノスタルジーを感じさせるものがある。

再びすごく乱暴なことを言えば、ポップカルチャーってのは「黒人文化に影響を受けた白人文化」という側面があって、音楽でいうと白人的なメロディに黒人的なリズムとハーモニーが加わったという感じではないかと。

そんで文化的に言えば、黒人文化ってどっかしら“ハード”なんですよね、さっきの話で言うと現実寄りのカルチャー。

そんで黒人文化の影響を受ける前の白人文化って、そのハードさが備わっていなくて、例えば戦前のディズニー映画とかそんな感じじゃないかと思うんです、こっちは幻想寄りのカルチャー。

ということで「ソングサイクル」のノスタルジーとは、ポップカルチャーが成立する以前の、きわめて白人的な文化の再興ではないかと思えるのです。

(ここでいう「白人」「黒人」というのはある種の文化的表象というか記号であって、人種的なニュアンスはゼロです、念の為。)

 

偶然かしら、最近読んだ漫画が近藤よう子『五色の舟』だったり、観た映画がエミール・クストリッツァアンダーグラウンド』だったり、現実と幻想(あるいは生と死)の世界をシームレスに行き来するような作品だったので、その流れで「ソングサイクル」を聴いて「あっ、そういうことか!」と腑に落ちたのかも。

あ、でもその一方で現実成分100%の『SEX and the CITY』を観て大いに盛り上がったりしているので、ホント、どっちがいいとかって話じゃなく、ね。

ランニングその後

駒沢公園を走ることに決めて3週間。

初めは周回コース1周だけでひどい筋肉痛になり討ち死に寸前だったのですが、その翌週は入念に準備運動をしてからマイペースで2周を走り切り、脚も痛くなりませんでした。

なまくらだった体が、ようやく運動できる感覚を取り戻してきたなと。

昨日はいよいよこれからのレギュラーにしようと思っている3周に挑戦し、とにかく何人に抜かれようとペースを乱されないことを心掛け、なんとか3周を走り切ることができました。

自宅との往復含め、トータルで1時間20分ほどのランニング。

距離的にはこれでいいので、あとはペースを上げて、1時間ちょっとでこの道のりを走り切れるように徐々に調整していきたいと思っています。

 

駒沢公園に行く途中、松陰神社前の商店街を通るのですが、「最近キテる」と噂には聞いていたものの、実際キテますね松陰神社前

いい感じのお店が緩やかに連携して増殖中といった雰囲気の一方で、囲碁・将棋サロンにおじいちゃん方が集っているなんて昔ながらの風景もあって、西荻とか昔の下北みたいな感じがしなくもないです、それらのこじんまりヴァージョン。

そんで目的地である駒沢公園ですが、ここはご存知の通り先の東京オリンピックの際に整備された運動公園ということで、60年代の雰囲気が色濃く残っています。

もちろんいつもたくさんの人でにぎわっている施設なので適宜手は入れられているのですが、多くの建物や施設がヴィンテージ感を漂わせていて、私はここの雰囲気がすごく好きです。

 単に古いだけでなく、50年前の人が未来を想像して作った先取り感があるというのかな、なんか夢がある感じがする。

今も、たぶん今度のオリンピックに向けた施設だと思いますが大規模な何かを造っていて完成が楽しみですが、とにかくいろんな時間が混在している場所のように思います。

いやー、近所にも結構見どころはあるんだなぁと改めて気づいた次第です。

 

走るというのは実は歩くよりも乗り物に乗っている感覚にずっと近くて、景色は「通り過ぎるもの」なので、ランニング中に見つけた気になるお店とか建物は、改めて散歩して赴くことにしないといけません。

散歩の楽しみがランニングで得られるなんて、なんか一石二鳥感。

そういえば走ってて実感したことに、最近東京の空気がきれいになったというのがあります。

冬だから空気が澄んでいるのもあろうが、昔に比べて明らかにきれいになったと感じる。

実際、排気ガスが改善されたり、高速網がつながって都心への流入が減ったとかあるんだろうね。

自分の体はもちろん、街の変化にも気づくことができるのがランニングのいいところ。

これから春に向けて、どんな変化があるのか楽しみな今日この頃です。

やっぱり天才です

今年は年明け早々、芸能ニュースがすごいですね。

幅広い世代がネットを通じて自分の意見を世に出せるようになったところでこれほど「語りたい」話題が連鎖すれば、祭りが終わらないのも当然で。

やや陰謀論めいてくるのですが、ここまで話題が豊富だと裏で何かよからぬ事態が進行してるんじゃないかと、ふと心配になってきます。

まぁでも大丈夫か、そうなったら文春がすっぱ抜いてくれるだろうから。

あれってスタート地点では文春が他のメディアに比べて多少取材力に秀でていたんだろうけど、あとはいいネタがどんどんあそこに集まってくるという、いわゆるポジティブ・フィードバックが働いてるよね。

モテる奴はなぜモテるのか? それはすでにモテてるから、っていうゲームのルールですわ。

 

さて、そんな話題の中で名前が挙がった一人に川本真琴がいます。

一体何があったのか本当のところはさっぱりわかんないですが、世間のリアクションとしては「痛い」という意見が圧倒的に多いようですね。

痛い……確かに世に出ている情報だけ追っていけばそういう見方になるんだろうけど、私は彼女の才能は今もって他の追随を許さないレベルにあると思っているし、よしんば痛いとしても、それが彼女の創作活動の源泉になっている部分もあるわけで、いまさら鬼の首を獲ったように「痛い女だ」とか言っても、それはポストに向って「赤い!」って言ってるようなもんだろうよ、と。

 

川本真琴が「愛の才能」で世に出てきたのは1996年、もう20年前か。

あれはホント衝撃でした。

あの曲は岡村ちゃんの作曲でしたが、誰がつくったとか関係なく、あの早口言葉をポップソングに詰め込むことができる人ってもう天才なんです、無条件で。

あれは技術的にウルトラC難度の荒業ですからね、もちろんやりゃあいいって話じゃなく、ちゃんと作品としての必然性があった上での早口言葉ね。

私の知る限りでは、川本真琴小沢健二小山田壮平の3人が天才的な早口言葉の使い手だと思います。

 

ミリオンセールスを記録した1stアルバム「川本真琴」は本当によく聴きました。

「愛の才能」ももちろん大好きなのですが、私が一番好きな曲は「タイムマシーン」。

この曲は歌詞がとにかくすごくて、当時私は写経よろしくノートに書き写したものです。

「タイムマシーン」は異常なまでにリアルな恋愛ストーリーで成り立っていて、おそらく彼女自身の体験をそのまま歌にしたものでしょう。

情景描写だけで物語の背景を余すところなく伝えてしまうストーリーテリングの力量、感情を言葉に置き換える際の高い技術、意味だけでなく言葉の響きそのものにも工夫を凝らした作り込み、どれをとっても誰にも真似のできない領域にある歌詞だと思います。

 

たとえば、

「「じゃあ、またね」なんて言葉は嫌い/テレビを見る気にもなれないよ」

というフレーズの驚くべき正確さと伝播力。

「だからさよならきっとできる/でもベランダではかないあたしはいったい?」

というヴァースも、揺れ動く気持ちをこれほどまで的確にとらえた表現はなかなかありません。

そして、1番の最初の言葉が「渋滞」なのに対し2番は「十代」という頭韻構造。

「明日変わるね/あたし変わるよ」というアナグラム

リアルな内容でありながら、随所に言葉遊びを織り込むたくらみには本当に驚かされます。

アルバム「川本真琴」はこの1曲のために買っても損はないと思われる、そんぐらいの名曲。

 

それにしても英孝ちゃん、モテるなー。

何の意味?

私には頻繁に夢に出てきて、目が覚めても「あれ何だったんだろう」としばらくぼーっとしてしまうものがあります。

それは雑居ビル風の古いマンションで、今朝も夢に出てきました。

 

毎回共通しているのは、そのビルは古くて複雑な構造をしていることです。

高くても4、5階建て、だいたい壁は白くて手すりや階段など鉄製部分は青か緑のペンキで塗られています。

いかにもその辺にありそうな感じですが、構造はやけに複雑です。

各戸の扉は普通同じ方向に整然と並んでいるものですが、てんでんばらばらで高低差もついてたりします。

それゆえに廊下や階段の構造はきわめて入り組んでおり、エッシャーのだまし絵のような印象を与えます。

そして廊下や階段、踊り場といった共用部はどれも狭く、しかもちょっと気を緩めたら落ちてしまいそうな危険な造作で、そこを移動するのには非常に気を遣います。

 

そのマンションと私の関係ですが、毎回浅からぬ縁があります。

今朝の夢は昔住んでいたということでしたが、なぜか私は当時の部屋の鍵をまだ所有しており、1階のかつて住んでいた部屋に侵入しようとします。

コの字型の金網で囲われたアプローチを抜け、ドキドキしながらアルミのドアノブに鍵を差し込み開けたのですが、セキュリティ対策のためか内側にもう一つ扉が現れました。

でも内側の扉も同じ鍵で開くようで、ガチャっと開錠したのですが、その音が思いのほか大きく響きました。

「ヤバい、現住人にばれちゃう!」と慌てて鍵を閉め、外側のアルミの扉も閉じてそそくさと立ち去ったのですが、焦っていたため外側の扉を施錠し忘れていることに気付きました。

もう一度戻って鍵をかけようかとも逡巡したのですが、とにかく立ち去るのが先と思い、そのままで逃げることにしました。

で、すぐにマンションの敷地外に出ればいいものを、なぜか私は上階に向かって進んでいったのです。

上階の構造は極めて複雑で迷路のようですが、他の住民に会わないよう、慎重に様子をうかがいながら、階下に向かう階段を探します。

階段は何系統もあってどれが最短ルートなのかさっぱりわからないので焦りは頂点に達するわけですが、とにかく早く逃げ出さなきゃと必死に歩き回りました。

そこで一応目が覚めたのですが、このパターンは以前も夢に見たことがあって、その時はそこの住民だったにもかかわらず、同じように共用スペースを誰かから逃げるように彷徨する夢でした。

 

この夢、私的には『1984年』におけるビッグブラザー的な存在の陰画ではないかと思っています。

夢の中の私は、常に目に見えない大きな存在から監視されていて、かつ罪の意識を抱えている。

それから逃れようと自分にゆかりのある雑居ビル的マンションに逃げ込むものの、そこは私を匿ってくれるシェルターでは全然なく、むしろストレンジャーとして私を炙り出すような場所だった。

「しまった!」と私は必死に逃れようとするが、その複雑かつ危険な構造に翻弄される……。

ま、何かの強迫観念の象徴なのかな、と思っているわけです。

 

そんであまりにも夢に出てくるものだから自説はひとまず置いておき、ネットの夢占いサイトをチェックしてみました。

すると……

「老朽化したビルの夢やひび割れの目立つビルの夢は、古臭い社会の常識や古臭い会社の管理体制に対するあなたの怒りや嫌悪感を暗示しています。」

うーん、管理体制っていうのはイメージに近いけど、おれ、そんな不満分子じゃないよ?

あ、でも"党派の人"は好きじゃないからなぁ、まぁ50%くらいは当たってる気がしなくもない。

さらにこんな記述も。

「建物に隠しフロアーがある…隠れた可能性がある。(男性の夢)ある女性に何らかの秘密がある。」

隠しフロアーはよくわかんないけど、とにかく複雑な構造なのは確か。

ある女性に何らかの秘密がある!?

えぇ~……あぁ……うーん……。

ちなみに高層ビルの場合は、夢だとか野心だとか自己顕示欲の象徴らしいのですが、私の場合古い雑居ビルだから当てはまらないやね。

 

ということで、引き続き謎は謎のままなのであります。